「物語の読解、演出の解体、世界観の抽象化」
「GHOST IN THE SHELL/攻殻機動隊」─もはや我々は人間ではない─ 感想と考察
人間を人間足らしめるものとは、自分を自分足らしめるものとは。
本来肉体から切り離すことのできない囚われの魂を解放することができたらどうなるのか。
この『GHOST IN THE SHELL / 攻殻機動隊』はゴーストが殻から解放されたところで終わり明確な答えは定まらないが、その個体や種を制限する殻によってその生命の在り方は定まるというような示唆はあったように感じる。
自ら新たな技術の発展を止めることのできない人間はそれを活用して新しい生活を作り上げるけれど、その生活に身を置く私たちは以前のような人間なのか。
人類が劇中の世界のようにロボットやインターネットと融合するようになった時、どこからどこまでを人間と言うのかという問いを投げ掛けられた。
そして、人とロボットやインターネットが融合するその時というのは、もう訪れていると思う。常にスマートフォンという携帯デバイスはもはやあなたの身体の一部と言えないのではないか。インターネットを介してコミュニケーションを行う私を20世紀前半の人々が見たら、それは人間ではなく超音波でコミュニケーションを行うイルカのように感じるかもしれない。
26年前の本作公開当時の人からだって、2021年の社会はGHOST IN THE SHELLの世界のように見えているかもしれない。
例えば、SNS上でのみ振る舞われる人格も一つのインターネットの中に発生したゴーストなのではないか。
そんなことに得るものがある一方で、きっと失うものもある。少なくとも自分は今存在する人類の形を留めていたいと思った。
余談
serial experiments lainと似たようなものを感じた。
インターネットの発達した社会、自我や意識とは何なのかを問うテーマ、霧に包まれたように謎めく世界観。
lainが現実の集合的な知や意識によってインターネット上に生まれる存在を描いていたのに対して、GHOST IN THE SHELLはインターネット上の情報という無生物から現実に降り立った魂を描いていたと思う。また、存在と魂というのもまた特筆すべき異なっている点なのかもしれない。存在という認知の仕方の問題と、魂という認知外の問題。
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