「物語の読解、演出の解体、世界観の抽象化」

「結城友奈は勇者である2期」─私も勇者になれたら─ 感想と考察
鷲尾須美の章
日常と絶望のコントラストを決定的に見せつけられた。
楽しい日常は突然に終わり、友だちは呆気なく死んでしまって…。その死を大赦や大人たちは名誉と言うけれどただ虚しいだけで、小学生の女の子一人救えやしないで本当に何が神様なんだよと叫びたくなる。
そして、子どもたちは最後の決戦で全てを失った。
3人はずっと友だちだよと誓いあった記憶すら失ってしまった。
健気なまだ小学生の女の子たちから全てを奪う不条理が痛ましくてつらくて涙が溢れ続けた。
勇者の章
破滅から救われたはずの世界、だけど世界のバランスが運命からは逃れられない。
友奈は世界を生かすための死にゆく祟りを背負わされた。そして、それは他人に明かせば災いが降り掛かってしまう。
みんなは幸せな日常を謳歌していて、その中で自分だけが幸せになれない。それは世界に一人ぼっちのような感覚で苦しくて辛いけれど、黙って一人耐えることしかできないのが何よりも辛くて哀しい。勇者は誰かを助けることはできても、助けられることはできない。
勇者部のみんなはやっぱり友奈の異変に気づくことができた。だけど、どうしようもないことに変わりはなくて、自分がみんなのための犠牲になればいいって友奈と、そんなこと認められない勇者部のみんなとで平行線のまま。みんなで幸せな日常を送りたいだけなのに…。
「友だちなら助けてって言ってよ」
それが友奈に必要な言葉で、友奈だって本当は死にたくないし怖い。
だから、人としての道を、ただ生きていたいと願った。その結果に、再び平穏な日常を手に戻すことができた。だけど、代償に人は神の加護を失い、人類は自らの力で生きていかなくてはならなくなった。これが日常の下で子どもに犠牲を背負わせてきた大人の責任と。
「無茶のない範囲で頑張る、そうすると未来が素敵になる」 自分も幸せにならないと、みんなも幸せになれないから。友だちの側に友だちとしてずっと居続けるためにも。
勇者になれたら
頑張ることは大事。だけど、それは幸せのためにあることで、無茶な自己犠牲では手に入らないもの。あなたがいてこその幸せなんだから。
強い人だからこそ悩みを一人で抱え込んでしまってる人のことに気づいて、「助けて」って言っていいんだよって言葉を掛けられる人に自分もなれたらいいなって。友奈の一人ぼっちで抱え込む姿は本当に哀しくてつらくて涙が止まらなかったから。
そして、平和も日常も誰かの残酷な犠牲の上に成り立っていることを痛感させるものだった。それは運命や世界の理のようにどうしようもないものかもしれないけれど、だけど諦めたくないし、勇者五箇条みたいに成せば大抵何とかなったりするのかもしれない。
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