「物語の読解、演出の解体、世界観の抽象化」
「トラペジウム」─悪夢を美化し、エゴを肯定する─ 感想と考察
本気でずる賢い
私も輝くアイドルになりたいと夢を抱く東ゆうは「夢で終わらせたくないから、現実にする」と宣言するように、夢に対して抜かりがない。それはつまり、野心的で現実的で計算高いということ。だからこそ彼女は夢を逆算して、まずはアイドルを目指すための仲間を、私を輝かせてくれるメンバーを集めていた。
そして、そんなゆうの逆算から辿るアイドル道はまるでアイドル2周目みたいな賢明さと、また一方で狡猾さとずる賢さがあった。その輝きへの用意周到さは果たして光なのか、はたまた反転して闇なのか。とはいえ、そこに本気という覚悟が通っていることだけは確かなように見えていた。
付け加えて、ここで一つ言っておきたいのは、この本気というのは時に多少の悪辣さをかき消すほどの輝きを持っていると、私は思うのだ。
理想と現実の狭間に、情熱の温度差
そして、ゆうの奔走の下に集まった3人、華鳥蘭子と大河くるみと亀井美嘉。東のゆうの計算で集まった西南北は、次第に互いに純粋に仲を深めていく。しかし、それは本物か、偽物か。ゆうにとってだけは作り物の仲の中で、温度感の違いを時折感じる。
そして、高専の文化祭への参加もゆうにとってはそんなアイドルの夢へ向けた下ごしらえの一つ。しかし、ライブに参加してアイドルへの動機づけを図ろうとしていたところで、予定は狂って10年後の自分をテーマにした衣装体験に参加することに。終わってみれば確かにある程度は楽しかったけれど、あくまでもそれは◯印ではなくて△印。夢に対する理想と現実をちょっぴり思い知らされた一幕として映っていた。
夢とエゴイズムの反転
そして、そんな夢か現実の面を持つサイコロは現実へと転び、嫌な予感が現実となる。
ボランティア活動がまさかの拾われ方をして、4人はTV出演を果たし、それがそのまま東西南北(仮)というアイドル活動に繋がった。夢はとんとん拍子に叶ってしまったものの、抱え続けた不和や不安は持ち越しされたまま。ゆうを除いた3人、特にくるみと美嘉の「この道でいいのか…」という疑問は晴らされぬままモヤモヤと燻る。
そうやって、見て見ぬふりをしてきた溝は深まり、4人の間の裂け目は一気に弾ける。くるみは「もうアイドルをやりたくない」と泣き叫び、美嘉は彼氏とのツーショット写真が出回るスキャンダルに見舞われる。そして、最後に決定打となったのは、ゆうにとって3人は”ただアイドルになるため”だけの友達で、それ以上の意味はないと言いたげなリアクション。
ゆうもゆうで「アイドルになるためのことを、私が全部考えてあげてるのに…」と内心思っているように見えていたが、その性の悪さにはやや共感もある。細かいところは別として、やり方の大筋はそこまで間違ってないようにも思えるのだ。
ただアイドルになりたいゆうと、そうでない3人の情熱のギャップや目指す場所の違い。そこに漂う空気の息苦しさだけが問題で、事実ゆうの夢のために3人はアイドルに引きずり込まれ、逃しはしないとせっかく深まった仲を犠牲にされたが、それはさじ加減の問題で、私はこの独善とエゴイズムの全ては否定できなかった。
なぜなら、ゆうは自分のわがままを良かれと思い込んでしまう程に、アイドルという夢に対して真剣で誠実だったからだ。
広がる夢は、悪夢か否か
しかし、結局ゆうも含めて全員アイドルを辞めてしまった。
そして、展開はさらに進んで、ゆうの懺悔と再び集まる4人。彼女らが語るのは「アイドルはもうやりたくないが、この出会いや思い出をくれてアイドルを経験したことは良かった」ということ。それは運命を肯定する言葉であり、それを頼りにゆうは夢を追い続けて、10年後……という物語の結末へと至る。
夢はエゴイズムと共に
それは青春の特権。夢見て挫折して、諦めて、再帰して、また違う道を見つけて。いつか大人になった時に、そんな昔話を笑い合って語り合って。そこには間違いなく輝きがある。
それはもしかしたら、いや確実に都合よく美化しているだけだとも思う。だけど、正解のない人生。だったら、思いっきりバカして間違って、幼さのままに駆け抜けた方が勝ちなんだと思う。どうせ間違うのなら、青春の一瞬を諦観の闇で濁らせるのではなく、がむしゃらに恐れずに太陽に挑んで輝かせた方がいいはずだ。
それは良くも悪くも、いや自分は自分の人生を生きていくのだから、”ちゃんと”良い意味で、独善の肯定なんだと思う。むしろ、敢えてそう思いたい。そんな良くて悪い幼さがなければ、大それた夢なんて手に入らない気がするのだ。
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