「物語の読解、演出の解体、世界観の抽象化」
「旧劇 エヴァンゲリオン」─ユメのセカイからの覚醒─ 感想と考察
第25話「Air」は、
素直に良かった。最後の敵は同じ人類で、NERVは人類のために使徒を殺すことを知っていても人を殺すことは知らない。全て裏切られて、それでも抗うNERVや過去の呪縛から解き放たれたアスカの勇姿にアツくなった。ミサトがシンジを大人にして送り出す場面、そして事切れる場面には胸熱くさせられて涙さえ溢れた。
そして、
最終話「まごころを、君に」
強烈で過激さすら感じるメッセージ性にやっぱりと思いつつも面食らってしまった。
シンジに対してミサトもアスカもユイも「自分の選択をしろ」と言い続けてきた。お前はお前であれ、他者とは違う自分自身を確立しなさいと啓し続ける。
一方で、シンジは存在意義や自分自身の価値を確認である「愛されること」を知らない。愛されることに慣れてないから、いつまた捨てられるかと怖れて、愛が欲しいくせにそれを受け入れられない。だから、近づくものを全てキズつけて跳ね除けてしまい、そうして一生他人のことが分からずに他人を自分の尺度でしか理解することができなくなっている。そして、愛されない自分の劣等感や自罰的欲求を等しく他人やセカイにも向けてしまう。
その結果、自分と他者を分つ心の壁「ATフィールド」は消え去り、全ての人類は一つに溶け合う。そこには自分をキズつける他者も世界もないし、劣等感の根源である自分もない。
でも、そんなセカイのことを「現実を誤魔化した都合のいい作り事、現実にあるものでなく現実を埋め合わせるユメ」「それは現実の続きであり、その終わりに現実がある」と痛烈に見せつけてきた。
そう啓された結果、シンジは居心地の良いセカイを否定して、苦しくても構わないから、捨てられてもまた会いたいと思ったからと現実の世界を取り戻す。自分の意思で世界を変えていくためには自分が存在していなくちゃいけないし、だから自分のいないユメの中から目覚めなきゃいけないと悟る。そして、「生きていこうとすればどこでも天国になる、幸せになるチャンスはどこにでもある」という言葉で締め括られた。
だけど、
最後にシンジがアスカの首を締めようとしてできなくて、アスカに「気持ち悪い」と言われて幕切れる。……素直に驚いた。唐突に平手打ちされたような気分だった。
しかし、しばらくして気付く。「それでもやっぱお前らはこのセカイを終わらせられなくて、ユメから覚められないガキのまんまなんだろ」と突き付けられた気がしてくる。そして突き付けられたのはシンジではなく、このセカイを見つめてきたお前自身だと指差されているように感じる。
これはちょっと穿ち過ぎなのかもしれない。だからあるいは、確かに新世紀エヴァンゲリオンという世界の中でシンジは現実を取り戻した、と描写された。だけどそれで私たちも分かった気になって満足したところで、結局それはユメのセカイの出来事である。だから現実の世界とユメのセカイを分つため、興醒めさせてユメから目覚まさせるための仕掛けとしての「気持ち悪い」だったのかもしれない。
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