「物語の読解、演出の解体、世界観の抽象化」
「俺ガイル続」─偽りの青春を本物にするために─ 感想と考察
比企谷八幡と雪ノ下雪乃
八幡と雪乃の違い
比企谷八幡は弱さの中に強さがあって、雪ノ下雪乃には強さの中に弱さがあるのだと思う。そして、そんな二人はとても似ていて、まるで正反対な二人でもあるのだと思う。
雪ノ下雪乃とは
まず、雪乃の場合は、彼女について基本的なスペックの強さがあるだけにその限界を自分で認知することができずに、人を頼ることができない。それ故に、雪乃はまさに文化祭の時のように、働かない文化祭実行委委員長の代わりに副会長の自分が頑張りすぎて、体調を崩してしまった。それはつまり、雪乃は頑張りすぎることができるほどに強すぎるが故に、自己破綻を起こしてしまうという弱さを抱えているのだと思う。
比企谷八幡とは その1
そして、比企谷八幡の在り方とは、「自分の弱さや情けなさを再帰的に自分に負わせることができるだけの強さがある」であるのだと思う。それは、必ずしも八幡自身に関わることに留まらない。八幡は奉仕部での人からの依頼に対しても、最適解を実行できるだけの強さがないから自分の弱さの部分にその依頼を負わせることで達成させてしまうし、それはとても強い在り方でもあるのだと思う。
だけど、そんな八幡のやり方は弱くて強いからこそ、人には真似できないようなものであり、他人の目を通せば痛々しくて仕方ない。さらに、そんな痛々しさは他人に目にとってだけではなく、八幡自身にとってもその弱い強さは痛みを伴うものである。八幡は自分の痛みを無視することはできても、彼もまた一人の人であるが故に、その痛みに関して不感というわけではないのだ。
だから、雪乃の強さが極まった末の弱さと同じように、八幡の強すぎる自己犠牲心もその行く末として、たとえ彼であっても見過ごすことができない程の痛みを抱えてしまう。結局はそれぞれの強さは巡り巡って、弱みや痛みとして自身に返ってきてしまうのだと思う。
比企谷八幡とは その2
そして、そんな価値観の脱局の一歩に一色いろはの生徒会選挙の一件があったと思う。彼はこの一件の解決に際して、あくまでも当初の目的であった一色いろはの生徒会選挙の当選回避から方向転換をして、奉仕部という場所を守ることを最終目標とした。これは今までの自己犠牲一辺倒の八幡とは違って、自分たちのためというエゴが表れていた。
そして、その目的を達成する手段も当初の自分自身が応援演説で惨めな醜態をさらすといういつもの痛々しいまでの自己犠牲的な手段を止めた。その代わりに取った手段というのは、SNSアカウントのすり替えのような欺瞞的なもので、もしかしたらそれは罪悪感を背負うという意味では今までと変わらない自己犠牲的なものであったかもしれない。
だけど、他人の責任をすべて八幡が背負うというものとはやや違って、自分で犯した責任を自らの内に抱えるというような意味では、やはり少しずつ八幡に変化が表れていたように映っていた。
偽物と本物
たとえ、偽物でも
そして、そんな姿を思春期らしい経験不足の中でもがく価値観や不器用さとして言い表すのだと思う。それは後から振り返ってみれば、どうしようもなく狭い視野に捕らわれたもので、「間違い」であることは明白だ。
だがしかし、その瞬間、その青春の輝きと曇りの中で、懸命に導き出したその答えに全くの価値がないとは決めつけられないとも思う。確かに本物ではないかもしれない。されど、贋作くらいの価値や輝きはあるのだと思うし、そうであることを信じたくもある。なぜならば、そうやってもがいた末に、彼らの青春の続き・本物があるから。だから、たとえそれが偽物であっても、今は愛して、抱きしめてあげたくなる。
雪ノ下雪乃も比企谷八幡も孤独である、されど…
雪ノ下雪乃はそのスペックの高さとプライドの高さ故に、孤高であり、孤独である。だけど、必ずしもそれは彼女が一人を好んでいるというわけではない。むしろ、彼女は自分を理解して欲しがっていて、誰かとの輪の中に入りたがっている。下手な言い方にはなるが、彼女は能力が高いからこそ、集団や組織のの中でその頂点としての役割を果たすのが向いていると思うし、また雪乃自身も心の奥底ではそうなることを望んでいるのだと思う。
それに、そういった感情が雪乃が比企谷八幡を気にかけ、期待し、失望してきた理由でもあるのだと思う。雪乃は彼女なりに八幡のことを評価していて、仲間に取り込みたいと思っている。彼を一人にさせたくないと思っているのだと思うのだ。
だけど、しかし、比企谷八幡は孤独を望んでいる。それは、彼固有の物事への向き合い方のせいもあるし、彼の苦々しい中学時代の過去のせいでもあると思う。望んでいるわけでもないのに周囲を敵に回すほどの自己犠牲心を発揮できる性分や、そんなことを可能にさせるほどの自己肯定感の低さは、彼が望もうとも望まずとも、どうしても集団というものと相性が悪い。
すなわち、比企谷八幡の生き方で自分が本当に守りたいものを守るためには、その守りたい対象と決別せざるを得ないのである。自分が孤独なヴィランになることでしか、守りたいものを救えないのだ。八幡は途中で雪ノ下雪乃や由比ヶ浜結衣と距離を取り、奉仕部への出入りが少なるのも、結局はそういうことなのだと思う。本当に大事な奉仕部の二人に迷惑を掛けないため、自分の一番大事な場所を守るためには、八幡はそこから離れなければならない。そういう不器用なやり方や生き方しか知らないのである。ツンデレといえば聞こえはまだ良いが、しかし、それはどこまでも哀しくて寂しいものでもあるし、そんな姿を特に雪ノ下雪乃は許せないのだと思う。
「本物が欲しい」
平塚先生曰く「今しかできないことを今自分がやる。もがいて考えて、あがいて悩む。それが『本物』である」と。
つまり、それはその過程も含めて自分だから、それを本物足らしめるということなんだと思う。その苦しむ過程にこそ自分が出てくるということ。そして、それ故に、比企谷八幡は誰かのためにと言い訳をせずに、自分のために、自分の欲求のために動かなければならない。そこに「本物」があるのだから。
でも、同時にそれは過去の比企谷が直面した惨めな自分や苦い過去へと後戻りしかねないことでもあると思う。それは、なぜなら自分自身をもろに曝け出すということだから。そして、それはそれをトラウマにして、比企谷八幡がずっと避け続けてきたことでもあり、その結果の今の八幡、自分の価値を過小評価して、自分を貶めるようにヴィランになりきる自己犠牲だったのだと思う。
だから、心の奥底にある何か「本物」が欲しいということ、すなわち誰かと関わりたいという欲求が彼の優しさに繋がっていて、だけど自分を前面に押し出せないというトラウマがヒーローにならずにヴィランになるという偽物の行動をもたらしていたのだと思う。
「本物」の手に入れ方
そして、その「本物」と言うのは、由比ヶ浜結衣が言うように簡単な分かりやすいものではないし、分かろうとして分かるものでもない。つまり、それは「本物」という問いの答えとして答えがあるのではなくて、その「本物」の答えを探す過程に答えが浮かび上がってくるということなんだと思う。
そして、この比企谷八幡と雪ノ下雪乃と由比ヶ浜結衣、この3人がお互いを分かり合おうとしても結局は明確な答えとして何かを解として分かり合えはしないということでもある。だけど、同時に分かり合おうと試みる過程の中におけるちょっとした共感や理解、あるいはすれ違いや衝突といった触れ合いを通じて滲み出てくるように分かってくるものもあり、それを以てお互いのことが分かってくるということなんだと思う。
第13話「春は、降り積もる雪の下にて結われ、芽吹き始める。」
俺ガイル続 13話について その1
結局の所、三人が求める「本物」「奉仕部の関係性」が違ったことが諸々の不和の原因にあるのだろうなと思う。八幡は相手が何を考えているか理解できる関係性を「本物」と考え、雪乃は自分を理解し助けてくれる相手を「本物」と思い、結衣は何でも言い合える関係を「本物」と捉えた。
俺ガイル続 13話について その2
結衣は「3人で来れて良かった」という言葉にも表れているように、この3人の奉仕部としての形が続くことを望んでいる。それは結衣が優しいのと同時に、八幡のことも雪乃のことも好きな、ワガママでズルい子だから。
そして、雪乃は表面的にはそんな結衣に同意しそうになるけれど、本心は違う。自分らしさを求める彼女はそれを見つけるには、今まで彼女が陽乃を追いかけてきていたように何かしらのモデルが必要。そして、今の雪乃にとってのそれは八幡。だから、雪乃は3人の形ではなく、八幡を選ばなければいけない。
最後に八幡。彼が欲しいと望む本物は、まず結衣の願いを否定するというもの。なぁなぁの関係で有耶無耶に過ごし続けることは彼の欲しいものではない。ちゃんともがいてあがかなくてはいけない。だから、彼は雪乃が一度は自分の本心の背いた答えをしそうになったことを咎めた。 そんな彼の「本物」は単純な欲しいものを望むわけではなく、苦しみも伴うものだけど、そこにこそ価値がある。だから、いずれか彼は結衣と雪乃のどちらかの想いを選ばなくてはいけないということに帰着するのだと思う。
俺ガイル続 13話について その3
この展開や描写の難解さを前にすると思わず「もう少し分かりやすく描いてよ~」と思ってしまうけれど、こういう表層的には分かりにくい心理こそがメタ的に見てもこの物語の本質なんだと思う。つまり、なかなか素直になれない本心、弱い自分を隠したくて遠回しにしか表現できない思いというものを、物語の描写を通じても映し出しているようにも思う。
Tags: