「物語の読解、演出の解体、世界観の抽象化」
「犬王」─魂の叫びは、友有の存在証明─ 感想と考察
今は昔、奪われて失われた者たちの物語
犬王と友有は無念のうちに終えた平家の物語を歌うことで、彼らの存在を再び世に示し成仏させていった。
そして、足利義満によって亡き者にされた友有と自らを封じざるを得なかった犬王。この歴史の上からその存在をかき消され、忘れ去られてしまった2人が確かに存在し一世を風靡したことを今世に示したのが、まさにこの「犬王」という物語であり、この物語が物語られる意味だった。
そして、物語られたのは「俺はここいる」という存在証明の魂の叫び。たとえ諸行無常の流れの中でその身が朽ち果ててしまっても、あの時そんなやつが居たということだけは歴史の一片に刻み付けられる。もし源氏に滅ぼされた平家や観阿弥の前に霞んでいった犬王のように、歴史の敗北者として朽ちたとしても、その名を刻めば誰かが見つけてくれる。
そうやって友有と犬王の存在を物語って成仏させた見返りに彼らが教えてくれたのは、まさにそんな生き様そのものなのかもしれない。俺たちだけのやり方こそが俺たちの名を人々の心に刻むことができて、そして自分自身が何者であるかを形作れる。呪いが如く醜いくらいに泥臭くてがむしゃらな野望、それに従って生き抜いてみせろ。それは悪役として描かれた比叡座の棟梁や足利義満だって同じで、京で一番の猿楽師や南北朝を統一して唯一の天皇になりたいという野望を望んで彼らなりに生きた。
「なりたい」自分こそが本当の自分の存在で生き様。自分も600年後まで名を残す人物に、とまでは言わないけれど、それでも誰かの記憶に残り続けるような思い切った生き方をしてみたくなった。流れる時の中で奪われも失われもしたくはない。
狂喜乱舞
しかし、そんなストーリーはこの「犬王」にとっては脇役にすぎないと言いたい。この作品の魅力の本質はライブシーンにこそある。琵琶で奏でるロックなミュージックに、室町時代の薄汚い民衆がまるでロックフェスの観客のように狂喜乱舞する姿。清水の舞台で単独ライブ、観客は手は打ち鳴らして足は踏み鳴らす。そして、共に合唱する「でっかいでっかいでっかいくじら~~」。
そんなライブシーンに興奮しすぎて、思わず自分も手を叩いて足を踏み鳴らすのは当然。鼓動が早まって息は上がるし、気が動転したみたいに目は見開いてしまう。そして、コールや合唱しようと喉は息さえ通してないだけで大絶叫してる状態。その上でこれでも発散できない昂りが行き場を求めて目から溢れて来る……。映画館だから抑えなきゃだけど、だけど体も魂もこの興奮を発散させたいと雄叫びを上げていた。
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