「物語の読解、演出の解体、世界観の抽象化」
「平家物語 第2話」─現世への執着─ 感想と考察
娑婆の栄華は夢のゆめ
不確定な未来の中で確かなものは「盛者必衰」の運命だけということにまとまるような回。
だけど、それも見方次第。悟りを得れば違う答えが見える様な気もした。
そもそも、びわはこの世に明るい未来がないことを知っていたのだ。清盛を「ギラギラしたやつ」となじりながら、先の行く末の不確かさや暗さを確かに感じていた。そして、今世での不安定な華々しい時が永遠でないことも、「未来」を見通す目で見抜いていたはずなのだ。
しかし、一寸先に待ち受ける「闇」に怖れをなしたのからか、つい「先」に光を求めてしまう。
母の面影を持つ祇王との出会いと、彼女の話す母の行方の手がかり。闇の中で煌煌と輝く未来が「また今度、また今度」と期待を叶えてくれれば、きっと次も…と思わずにはいられない。暗い未来を知ってるびわでさえも、少し良い時が続けば未来にはきっと良いことがあると期待し、信じずにはいられない。びわにとって「先」が怖いものから楽しいものになっていた。
そして、唐突に夢は闇へと掻き消える。祇王は清盛から捨てられて出家し、びわとの「また今度」の再会が断たれてしまう。そして、徳子の死の未来が強烈にびわの目に焼き付く。澄んだ顔をしていた祇王に一度は明るい未来を確信したであろうびわだが、そのフラッシュバックの後にどう思い直したかは明白であろう。
夢物語の幻想のような今世で確かなのは「盛者必衰」の運命だけ。
今世への執着と悟り
しかし、祇王が出家して澄んだ顔をしていたのは、びわが思うような「先」の明るさを示してはいないが、今世の諦観から極楽に「光」を見出していたのだろう。そして、それが「先」の明るさを示すことには変わらないのかもしれない。
それならば、徳子喪失の予見がびわの心にもたらす闇というのは、ただの今世に執着にすぎないのかもしれない。
びわの視点ならば、結局盛者必衰の理は絶対かもしれない。
だけど出家した祇王の視点から見れば、現世への執着をやめることでそんなことに悩む必要はなくなるのかもしれない。
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