「物語の読解、演出の解体、世界観の抽象化」
「花咲くいろは」─夢が終わらない限り、喜翆荘も終わらない─ 感想と考察 21~26話
第二十一話「蘇る、死ね」
恋が喜翆荘に秋の訪れを告げていた。
何よりまず縁と崇子が結婚するということで、緒花の一言でこの喜翆荘で結婚式をやろう!ということに。
そして、女将も亡き夫と二人で受け継いだ旅館がこの女将・スイを喜ばせるための「喜翆荘」なんだという話をして、崇子に「どうか縁のことをお願いします」と頭を下げる。「本当の一人には絶対にさせない」という約束である結婚は、女将にとっても本望のようだった。
その一方で、別の恋の話もあり。徹さんが結婚式の宴会料理に意気込む中で、民子はいつになく彼が自分を気にかけてくれたことが嬉しくて仕方なかった…、はずなのに。次に口を開けば、徹さんは緒花が…緒花が…と。
そんな中で、民子は何のために徹さんの前で板前修行に励んでいるのかすら空っぽになってしまったように見えていて、そんな姿を徹さんにも叱られてしまう。そして、その果てに民子は緒花に八つ当たったと思えば、「徹さんと付き合ってあげて……!!」と激昂したりと、ぐるぐるとぐるぐると迷ってしまっているようだった。
第二十二話「決意の片思い」
「報われない片思いだからこそ、次の恋を探すもんなんだよ」という皐月の言葉は、娘の緒花はもちろん、民子のことも決意へと導く象徴として聞こえるものだった。
特に、民子は徹さんが緒花に取られてしまいそうなことが不安で憎くて、自分の本心とはちぐはぐな八つ当たりをしてしまっていた。だけど、徹さんの口から「緒花のことは好きなのかもしれない…、明るくてワクワクさせるような…。でも、民子のことも見ててハラハラする」と聞かされて、民子は確かにこの想いは叶わないのかもしれないけれど、それでもこの想いを徹さんは見ていてくれているという嬉しさも得られた。
それは、民子にとって、自分の想いがただの報われない片思いじゃなくて、叶わないかだれど報われはする片思いなんだということを意味しているのだと思う。だから、民子はもう自分の想いを投げやりにしたりしない。この恋心と本気で向き合って片思いし続けると決意を新たにすることができたし、それによって板場での迷いも必然的に消えていったのだと思う。まさしくラブパワーだった。
また、緒花も緒花で、民子がどうとか徹さんがどうとかといったことに迷わず、孝一への片思いをすると宣言した。そんな二人の片思いの決意には、縁と崇子の結婚式と同じものを感じた。叶った恋と叶わない恋という違いはあれど、どちらも今までの自分の延長線上にありながら、新たな自分自身の出発点になる。迷った弱い自分を捨て去って、まっすぐに強い自分になるきっかけにそんな恋の区切りがあるのだと思う。
第二十三話「夢のおとしまえ」
喜翆荘を畳むという女将の決断に、これからを考える喜翆荘のみんな。巣立ちのときへ向けて、一回り大きくなりながら新たな自分へと変わっていく時なのかもしれない。
そして、緒花と孝一の関係もそれは同じなはず。だけど、「片思いを諦めない!」という決意を形した緒花には、どこか迷いも覗かせていた。「別に自分の人生は大変なものというわけでもないし、孝ちゃんのこともただの一方的な片思い…」というモノローグは、変化とは真逆の定性さを表していた。
一方で、孝一は緒花の母・皐月から、喜翆荘で働く緒花の様子を映像で見せられる。そして、そこに映るのは孝一の知らない緒花の姿、初めて見た働く緒花だった。緒花自身は自分のことを変わらないままと思っているようだけれど、孝一の目には確かに変化があったし、だからこそそこに追いつきたいという孝一の決意もあったように見えていた。
望むと望まずとに関わらず、時は流れ、変化も変化自身の方からやって来る。それは喜翆荘の終わりにとっても、緒花と孝一の関係にとっても同じ必然のことなのかもしれない。
第二十四話「ラスボスは四十万スイ」
そして、そんな止まらない流れに押されるようにして、何か思いを伝えようとする孝一と、それを遮って「私が、ちゃんと言いたい…!!」と迫り、「ぼんぼり祭りに来てほしい!」と伝えた緒花だった。
それに、そんな啖呵を切った緒花は、もう変わることを恐れていない頼もしさを携えてるようでもあった。
一方で、喜翆荘を畳むと譲らない女将が対照的に映っていた。亡き夫のスイを喜ばせるための誓いが「喜翆荘」だから、いつまでもそんな喜翆荘を続けていることはみんなを自分のわがままに巻き込むことに他ならないというのが女将の考え。みんなを羽ばたかせるためにも、喜翆荘は畳まなくちゃいけないと譲らなかった。
でも、緒花はそんな女将のことが分からない。みんな喜翆荘を離れたくないし、喜翆荘がみんなの新たな夢になっているじゃない!とオカミに言い換えす。そんな中で、特に若旦那の縁が「女将の指示がなくとも、喜翆荘は─!」と彼なりに喜翆荘を引っ張っていこうとする姿は、まさに緒花の言う新たな夢の形に見えていた。喜翆荘はもう女将の思いだけじゃなくて、みんなそれぞれの思いで動いていた。
第二十五話「私の好きな喜翆荘」
ぼんぼり祭りが目前というのに、喜翆荘はそれどころではなく。みんなの大好きな居場所である喜翆荘を終わらせたくないと意地でお客さんをたくさん取り、みんな手一杯ギリギリで働いていた。それもこれも「ここしかない」という思い故の切迫感だったように見えていた。
だけど、緒花だけは少し様子が違っていた。「みんなは確かに頑張ってるけど、それはぼんぼってるのとは違う」という言葉がまさに的を得た言葉として聞こえていた。みんなは大好きな喜翆荘のことを守ろうとしていて、それによってみんなも喜翆荘も変わりつつあるけれど、緒花にとってそれは「大好きないつもの喜翆荘やみんな」とは別の姿のように感じていた。
そして、そんな緒花のことを構ってられないと旅館仕事にかかるみんなだったけれど、だんだんと回しきれない仕事を前に言い争ったり、喧嘩したりしてしまい。少しずつ今の喜翆荘は何か違うと気づき始めた。
それは、まさに緒花が示唆したような「自分の本当の夢の形」を見失っていたのだと思う。みんな誰も喜翆荘のことが大好きだけど、それは喜翆荘で楽しく一生懸命に働くことが好きなのであって、決して喜翆荘のために争い合うことが好きな訳なんかではない。
大事にしなきゃいけないのは、一人一人の自分の思い。どうして何のために「自分のこの夢」を叶えたいのかと真っ直ぐ見つめてみなければ、その夢もまた叶いはしない。今の喜翆荘のみんなは、「喜翆荘を残す」ことばかりにがむしゃらでどんな喜翆荘を残したいのかやどうして喜翆荘を残したいのかということを忘れていた。
そして、それをみんなに気づかせたのが、女将だった。女将が女将ではなく、一人の従業員・スイとして仲居仕事の助けに入ったのも、その「一人一人の思い」を見つめ直さなければいけないということをみんなに示していたように見えていた。そして、旅館仕事に一息ついたところで、「ぼんぼり祭りに行くよ」とみんなを連れ出したのは、まさに「みんなそれぞれが夢見る未来の喜翆荘」へ導くためだったのだと思う。
最終話「花咲くいつか」
ぼんぼり祭りに緒花は「四十万スイになりたい」と願う。それが意味するのは、「女将みたいに仕事に誇りを持って、一生懸命になって、いつまでも最初の夢を忘れない人になりたい」ということ。
そして、お祭りも終わり、若旦那・縁は喜翆荘を閉じることに同意すると決意した。しかし、「でもまたいつか再開したい、母さん…女将さんが喜ぶ旅館を作りたいんだ」という縁の言葉と、それに続いて自分もまた戻ってくるというみんなの宣言は、これは決して夢の終わりではなくて、これは夢の始まりなんだと思わせるものだった。
女将さんという夢を忘れずにずっとずっと走り続けてきた人の魂がこもった場所が「喜翆荘」であって、そしてそんな「喜翆荘」で働くことでみんなも自分の夢を抱く熱意と決意を得られる。それがまさに喜翆荘を「夢が生まれる場所」と言い表した緒花の胸中なんだと思う。
だからこそ、喜翆荘は一度なくなるけれど、みんなの喜翆荘をもとに生まれた夢はなくならない。むしろ、この「喜翆荘」を再び作り上げるために、みんな「ぼんぼろう!」とすることができる。そして、さらにそんな女将みたいな「ぼんぼってる人」が集まることで、それを追いかけて「自分も!」とぼんぼり始める人も出てくる。
つまるところ、それもひっくるめての「夢の生まれる場所・喜翆荘」。みんなが夢に向かって頑張って、人生を輝かせられるための旗印なんだと思う。それに、この「花咲くいろは」という物語だって、この軌跡を見つめてきた自分にとっての「ぼんぼろう!」と駆け出すための旗印の一つとして、記憶と心に刻まれていた。
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