「物語の読解、演出の解体、世界観の抽象化」
「グリッドマン ユニバース」─重なる世界が見せた真実とメタフィクション─ 感想と考察
この物語はすべての妄想への賛歌なんだと思う。
子どもっぽくて、夢想的で、ロマンチックで、非現実的なメタフィクション。
GRIDMANで人と繋がることを知り、DYNAZENONで自分を貫くことを知った僕たち人間は、今度は夢見ることを知る。
「グリッドマン物語」
それは霧のように消えてしまったあの2か月のことを、みんなに本物だったんだって伝える物語。あの日々の中で得た大切なものを残すために、六花と内海にとって今自分たちだけにできること。それが文化祭の演劇であの出来事を再現して、今一度本物の出来事にしてしまうことだった。
この世界ってフィクション?
だけど、この世界はまたしても歪められてしまった。DYNAZENONの世界が重なり合って、みんなそれぞれの夢に見たような理想が叶っていく。ガウマは姫と再会して、裕太は六花と良い雰囲気なれて…。でも、こんな優しくてカオスな世界はまたしても作り物のフィクションだった。
たとえ何次元でも、この世界はたった一つの本物
だけど、裕太たちの世界も、蓬たちの世界も、グリッドマンの生きるハイパーワールドも、アカネのいる3次元の世界もすべて本物。マルチバースの歪みを修復するために、下位次元の裕太たちがより高次元のグリッドマンを助けに行く。そして、その中で現実世界のアカネが手を貸してくれる。どれも本物のノンフィクションなのだ。
それぞれの世界を生きている人がいて、自らの意思と意味を持って存在している。3次元の世界の中に2次元の世界があったり、その外側に観念的な世界があったりするけれど、彼らが自らの手で彼ら自身の世界を形作っていることは紛れもない真実。階層的だけど、個々人の意志のように独立した世界観がそこにはある。
重なり合って繫がり合って、嘘も本当に
だけど、その一方で、隣り合う世界同士が作用し合うこともまた真実。修復されてみんなが忘れてしまったグリッドマンの物語やアカネという友だちの存在は決してなかったことにはならない。裕太や六花、内海が彼らに貰った勇気や生きる意味は残り続ける本物。そして、蓬や夢芽たちと過ごした一時の日常や一緒に作り上げた文化祭もまた真実だ。
それにこの世界から旅立ったアカネも、液晶越しに僕らを見つめている。彼女が情動や妄想が生み出したこの世界はフィクションだけど、そこには確かに現実との繋がりがあって、それが空想を現実足らしめている。それはまさしくアカネがアンチという怪獣に命を与えて、人間としたことのように。
設定盛りすぎで、奇抜でバカバカしくて、出来過ぎな物語だったけど、そこに感じた思いやぶつけた想いは等身大の僕たちの物語。この頬を伝う涙が偽物ではないように、僕たちの二つの物語に向けた熱狂の末に、新たに生まれたこの一つの物語もまた絶対的な現実なのだ。
フィクションを信じた幼く愚かな僕たち
もし世界がピンチになれば、これからもグリッドマンはすぐに助けに来てくれる。僕たちが人生の中で落ち込むようなことがあっても、アニメが支えになって、道を示してくれる。それはまやかしなんかじゃない、僕らの人生の中にアニメが織り込まれていく。
そうやって、フィクションさえも信じ込んで本物にしてしまう。それがか弱い僕たち人間だけに許された強さなのだ。だから、裕太は現実が歪みかけた世界で六花と良い雰囲気になれたまま、修復された世界でも彼女と繋がることができたのだ。
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