「物語の読解、演出の解体、世界観の抽象化」
「シンエヴァとレヴュスタの共通項と差異」─セカイ/舞台のメタフィクション─ 考察
シン・エヴァンゲリオン劇場版𝄇と劇場版少女☆歌劇レヴュースタァライト
どちらも物語と観客の一体化を求めながらも真逆の過程を経て、現実の世界と彼らのセカイが合一する神話/戯曲。
エヴァは物語を終わらせる中で次元を分離させ、スタァライトは物語を駆動させるために次元の壁を取り払った。
ここで述べることは、必ずしも既読を要するものではないものの以下で詳細に述べた解釈や受け取り方を基礎にした考察あるいは解釈、理解です。
シン・エヴァンゲリオンの場合
終盤の初号機と13号機の最終決戦のまさにエヴァらしいとも言えるような物理的に破壊されるはずの建造物がその形を留めたままにただ吹き飛ぶようなチープな3D、数十メートルもの背丈があるはずエヴァがミサトの家の居間で戦うことで人間大に見える姿、特撮ジオラマのようなセットの上で繰り広げられる作り物の如き戦闘…。これらはエヴァンゲリオンという虚構の神話を解体する手順として映った。
そして、エヴァンゲリオン・インフィニティが人間や動物に還元されていくシーンは以上の過程を経た私たち観客がエヴァンゲリオンという神話から解放されるもので、その幕引きを決定づけていた。さらにその後のシンジとマリが徐々に原画になっていく過程は、虚構の存在をこちら側の現実に召喚する儀式だった。
エヴァンゲリオンは彼らと私たちを分離し、それは逆説的に一体化を求めていた。
少女☆歌劇 レヴュースタァライトの場合
愛城華恋が観客から視線を向けられていることに気づいて恐怖する瞬間、確かに現実の観客はスクリーンに映写される舞台少女と同じ舞台にいた。
そして、物語は舞台上に観客としての役割を与えて舞台への参加を求めた。舞台少女たちは観客に求められることで演じ続ける燃料を得て、物語を完成へと導く。
しかし、観客から求められていることに気付けず、舞台上のひかりしか目に映っていなかった華恋は舞台少女として死んだ。
この屍と化した華恋の魂に再び炎を灯したのは、彼女に魅了された観客でもあったひかりと、舞台少女たちの未練を断つためのレヴューをここまで目にしてきた私たち観客が華恋にももう一度演じる姿を求める欲望だった。
そうして愛城華恋が生まれ変わって、またゼロに戻った。
観客が物語に参加して現実と虚構が溶け合うことでこの戯曲スタァライトは完成し、終劇を迎えた。
ネオンジェネシス/次の舞台としてのこの世界
シン・エヴァンゲリオンはエピローグで虚構から現実に舞台を移し、虚構のセカイの彼らが現実世界に顕現させた。セカイが世界に寄り添い、彼ら子どもたちの未来として位置付けたこの現実を生きる私たちの中に彼らの物語を残した。
スタァライトは、かつての舞台少女が塔を下りた後の何もないけれど何にでもなれる姿を描いた。エンドロール後の「本日、今この時」の文字は再び舞台と観客席を一つにする合図であり、「本日、今この時」新たなオーディションに挑む愛城華恋の背中には観客は自分自身を投影してしまう。彼女たちが観客から想いの詰まった「トマト」を受け取ったのと同じように、私たちも舞台少女の飽くなき生き様を受け取った。
この同時期に劇場公開されるもファン層が大部分では重ならないような2作品が、その方向は逆方向であったが共に作中で感情移入以上の没入感を演出していた。どちらもとても前向きで純粋なメッセージを持ったもので、一方を鑑賞しているともう一方のことを思い出してまた見返したくなってしまうものだった。
Tags: