「物語の読解、演出の解体、世界観の抽象化」
「シン・エヴァンゲリオン」─セカイは終わり、世界に重なる─ 感想と考察
大人と子供
日常とセカイ
他者と自分
刹那と永遠
終わるものと終わらないもの
現実と理想、あるいは虚構
コドモのセカイ
理想というものは往々として手に入らないものだが、それ故に焦がれてしまうものでもある。
碇ゲンドウはユイを希求する余りに、それだけが彼のセカイの全てになってしまった。閉じたセカイは世界の破滅すらもたらすものだが、その世界が崩れ行く轟音すらセカイの内側のゲンドウの耳には入らない。
運命を仕組まれた子どもたちはヒトモドキが如く理想と現実の間を漂う存在だった。ゲンドウから生まれた子どもたちはセカイで戦い、戦い、戦った。そして、ニアサードインパクトの後に辿り着いたそこには息をして血の通った日常があった。ニアサードは日常を破壊したが、セカイに綻びを作り、そして14年経過した。
セカンドインパクトが世界をセカイに引き込むものであったならば、ニアサードインパクトはセカイから脱却するきっかけであった。
ニアサードによる夢の世界の破滅とその中に生まれた第3村は日常の平凡さと尊さを語った。そこに世界をかけた戦いはなく、ただ生きるための労働があった。そして、そこはあらゆる生命の生えないL結界と常に隣合わせでもあった。
大人 × (理想 + 現実) = 未来
村に生きる大人たちは子どもたちの未来を願い、託していた。
葛城ミサトに送り出されたヴィレクルー
碇シンジに送り出された運命を仕組まれた子どもたち
碇ユイに送り出された碇シンジ
ゲンドウの回想した記憶の中には、現実を見つめるだけでは苦しいという事実と、己の世界の中に埋没して叶うことのない安らぎの理想を追いかけるだけでは報われない葛藤が映し出されていた。
9+10+11+12のオーバーラップしたプラス・フォー・イン・ワンの8号機とガイウスの槍が彼のセカイを壊し、碇シンジに導かれることで、碇ゲンドウはセカイから解放された。
理想は過去をオーバーラップして未来を作り、現実に願いをかけたことで今がある。
セカイは終わる、されど世界は続く
終盤ではエヴァンゲリオンというゲンドウのセカイの虚構性が示され、その終劇が告げられた。
初号機と13号機の戦いやポカポカレイにシンジが語りかける場面で特徴的であった舞台セットはエヴァンゲリオンというセカイの虚構性を暴くものだった。この架空の世界がセカイであって現実ではないことを悟らせて、現実へと送り出し、そしてこの物語を終わらせる。
碇シンジは使徒から世界を救う英雄ではない。
真希波・マリ・イラストリアスはセカイを裏切り破壊したイスカリオテのマリではなく、ただの胸の大きいいい女。
そして、数多のエヴァンゲリオン・インフィニティが人類や動物に還ってゆく情景は私たち観客がエヴァンゲリオンの終焉と共にこの終わることのなかった神話から解き放たれるようであった。
だからといってこの虚構のセカイが無意味だった訳ではなく、シンジたちがこの世界に降り立ったように、私たちの有る世界にこの神話を重ね合わせることに意味がある。
それは第3村のような脆くて退屈で暖かい日常の中に生きることや大人と子どもの関係といったものであり、あるいは虚構のセカイをその枠に留めず現実を語った寓話と捉えることそのものさえである。
「さようなら、全てのエヴァンゲリオン」
それは日常の中で彼らの神話の断片を見つけるためのおまじない。
Tags: