「物語の読解、演出の解体、世界観の抽象化」
「SSSS.DYNAZENON」─不完全な僕たちの生き方ってなに?─ 感想と考察
どこか猜疑心に満ちた物語だったように思う。夢芽の姉に対する憶測、怪獣優生思想の一味との関わり、そしてこの物語の行く末というものの見えなさ。
自分の内側を裸にする
でも、そういう疑いをはっきりと口にすることが、もやもやとした霧を払う答えだということを彼らは提示した。そうやって本音を出し合うことで一つになれる。その象徴がダイナレックスで、相容れない本音の殴り合いがダイナレックスvs怪獣優生思想の戦いのように映った。
真っすぐな目がミライを見通す
そうして霧払いした先に見えたのは、未来。
そもそも疑念の霧を煙らせていたのは過去への執着や束縛。断ち切れないそれが、いつまでも今の自分たちの視界をフィルターし続けるせいで、ありのままの現実をそのまま見とめることができない。夢芽が姉の自殺を疑うことも、5000年前の怪獣優生思想たちとガウマの衝突も。
でも、過去を振り切れるからこそ、未来へ走り出せる。
最終回のエピローグ、ちせがゴルドバーンを送り出して、堤防を走りながら「ありがとう」叫ぶの姿はまさにその象徴として映る。ちせにとってゴルドバーンは外の社会生活に飛び出せない自分の支えであり、それを手放す心中は涙で満ちているはず。だけど、そんな過去の自分を振り切って、新しい自分を探して突き進むからこそ、ちせはゴルドバーンを笑顔で送り出せる。自分の手を離れていくゴルドバーンこそが未来の自分の象徴となるのだ。
未完成なままの僕たち:Im-Perfect
過去を霧払いした先に待っている未来、それがどんな形をしているのかなんて分かりっこない。
だけど、そんな不自由さこそが人間であって、かけがえなさなのだ。不自由さの中で、もがきながら生きるのが人間なのだから、別にスッキリしなくても良い。最後にこんなエンディングで良かったのかなって思いながら、手にした結末を未来の中で正解していく過程こそが正解なのだ。
そして、どこかハッキリしないスッキリしないこの物語の結末。蓬たちは怪獣優生思想に勝ったけれど、エピローグではどこか曇ったような表情を終始浮かべている。それは、この物語の結末が正解だったのかどうかを視聴者に考えさせる。その時、あなたの表情もきっと蓬たちのようにどこか晴れないものではないだろうか。
でも、それこそが正解なのだ。100点満点の答えを得るのではなくて、明確な正解も間違いもないものを突き付けられて、そこに正解を見出していくことが正解なのだ。少なくとも私は「DYNAZENON」をそう解釈することで、この物語は良い物語だったという一つの正解となる評価を下した。
そして、だからこそ、最終話のサブタイトルは「託されたものってなに?」であるのだと思う。「託されたもの」というのは、この物語が伝えたかったメッセージや、あるいは蓬たちがこの先生きていく人生のことなのか、それすら判然としない。でも、それはこの物語をたった今見終えた自分にしか分からないことだし、その自分自身がこれから思いを巡らせた末に見つけに行くもの。そんな「託されたもの」は曖昧だからこそ、既にある過去の中に答えはなくて、これから走り出す未来の中にあるはずなのだ。
世界観が描き出す人間らしさ
人と人とが繋がり合うことこそが不完全な人間という存在の生き方なんだというのがGRIDMANが示した人間像だった。それを受けてDYNAZENONが描いた人間像は、人が繋がり合うためには不完全な弱さを抱えた本音を曝け出してぶつけ合わなければいけない、そして正解のない正解を未来に求め続けることこそが不完全な人間の正解というものであった。
そして、GRIDMANとDYNAZENONの世界が繋がり合って生まれたグリッドマン ユニバース。その多元世界《マルチバース》が描く新たな人間像は…。
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