「物語の読解、演出の解体、世界観の抽象化」
「天気の子」─映し出されるのは現実逃避の蜃気楼─ 感想と考察
二つの顔を持つ東京
この物語の東京には二つの顔があったように思う。
一つは、陽菜の家を揺らす程に電車が至る所に張り巡らされ、また目先の利益に喰らいついて人も街並みも息苦しく、薄汚れ、様々な社会問題に溢れた大都市。
もう一つは、陽菜や須賀圭介のような無機質な都会でも帆高にあたたかい心で接してくれる人や陽菜の家や帆高や陽菜、夏美、圭介と娘の萌花の揃った芝公園のように緑に包まれた場所の残された一面。
大地の上、空の下でただ揺蕩わねばならない人類
そして、この物語は技術発展と自然環境、無機質さとあたたかさ、現実と希望の対比を描いていたように思う。
降り続く雨に晴れ女は自然の理を破って青空をもたらした。それはまるで自然を顧みずに自らの生活環境を拡張し自然環境を犯す人類のようでもあった。そして、その代償に晴れ女はその力を失い、3年間もの降雨をもたらして東京は海に沈んだ。
東京は江戸時代には元々海だった。世界なんて元々狂っている。だから誰のせいでもない。確かにそうかもしれないが、事実、東京は沈んでしまった。
人類の力は地球を制したように見えたが、その代償にはしっぺ返しが待っていた。地球温暖化だって人のせいであるという主張に対する懐疑論も存在するが、実際に都市は牙をむく自然に飲み込まれそうになっている。実世界でも2019年の台風ハギビスや6月から7月にかけてのこの映画の上映の最中に32日間も東京で連続して降雨が観測されたりと、まさにこの物語で描かれたような異常気象が見られた。この事実だけで私たちがそれを食い止めようとするための動機は十分であるし、そこに明確な誰かのせいなんてない。まやかしで誤魔化すのではなく、真正面から向き合わなければいけないのだ。
高く青い空を目掛けて
また、この物語において大人は今の多くの私たちのように振る舞ってきたと思う。目の前の現実に目を伏して、理想や希望の可能性を見逃してしまい、諦めてしまっている。それに対比して、帆高は常に可能性を追いかけ続けている。島で雨空の中ぽつんと射す光を追いかけて海岸で行き止まりになってしまっても、その海の向こうの東京を次は目指して。また、その憧れの東京で大都市の現実を知っても、そこで出会った陽菜を追いかけて帆高は進み続ける。
そして、最後の場面で海に沈んだ東京を見ても、ぼくたちは大丈夫だ!と穂高は言う。世界なんて元から狂っている、誰のせいでもないと大人に言われてもこの東京をかつての陽菜や圭介、夏美、晴れ女ビジネスのお客さんたちと出会った東京にしたいと願い、諦めることはない。
また、劇中で登場人物たちから、東京、日本列島、地球と徐々に視点を変えて俯瞰する描写があった。それ程のスケールから見れば人の営みなど些細なものであり、圧倒的な大地と海しか見つけることができない。その中で私たちの文明がいくら手を伸ばしてもいずれかはそれに飲み込まれてしまうようにも思えた。
この物語はそうやって現実に縛られて現状を諦めや妥協に結びづけたりなんかしていないで、希望や未来に繋げようという物語に自分には思えた。
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