「物語の読解、演出の解体、世界観の抽象化」
「劇場版ヴァイエヴァ」─描き、語る映像美─ 感想と考察
描き語るアニメ
今作で一番京アニすごい!というかもはや感服した部分に、絵によって描き出されるキャラクターの内なる心情があった。これを感じた場面はいくつかあったが、とりわけこれを感じたのはヴァイオレットとホッジンズがギルベルトの家に押しかけた場面だった。ここでギルベルトは会いたいというヴァイオレットを拒み、その意志の固さを示すように火にかけた鍋の前でじっと立っていた。しかし、揺らめく炎に照らされたギルベルトはまるで震えているように見え、罪悪感に押し込まれた彼自身もヴァイオレットに会いたいという内に秘めた想いとの葛藤を感じた。このアニメーションだからこその描き語るような場面は特に印象強かった。
もう一つ印象のあった同様の描き語る場面に、アイリスがリュカに宛てたユリスの手紙を代筆する場面がある。アイリスはユリスの限界も近いというところでタイプライターを険しい表情で見つめるが、初見の時はなぜタイプライターにこんなにもフォーカスするのかいまいち理解が及ばなかった。しかし、その後の展開を知った2回目の鑑賞時にはタイプライターに目を落とすこの苦悶の表情に込められた手紙や手記人形の無力さを痛感するアイリスの悔しさをひしひしと感じた。そして、電話が活躍する場面の後のアイリスの「いけ好かないな機械もやるじゃない」はこのアイリスの悔しさ募る思いを感じ踏まえることでいっそう鮮やかに聞こえた。
舞台挨拶でもこの作品の細部へのこだわりようが語られていたように、決して分かりやすくはないけれどその分繊細で丁寧な描写が2回の鑑賞では気付き切れない程たくさんあって、何度も観ることでその分キャラクターの心情により一層寄り添え、物語に没入できるのだと思う。
物語を歌い語る曲
歌と物語の一体感も言葉で表しきれないほど素晴らしかった。挿入歌の「みちしるべ」はTVシリーズからの曲でもありヴァイオレットのTVシリーズから劇場版に至るまでの道を思い出させてくれたし、挿入歌直前のヴァイオレットの「少佐の『愛してる』がみちしるべだった」という台詞をより感極まるものにしてくれていた。「WILL」と「未来のひとへ」もこの140分の物語を美しく綴り上げていて、様々なシーンが思い起こされた。特に「WILL」の「花はやがて 土に還り 芽吹いていく」はデイジーがヴァイオレットの軌跡を追う一連の場面をこんなにも美しく集約できるのかと息をのんだ。
絵と音楽と台詞、この3つの要素で交差して編まれたこの作品には最初から最後まで抑えられない感情が溢れ続け、胸が熱くなりっぱなしだった。
手紙と電話
「時代は変わる。でも変わらないものもある。」と言われていたように、戦後という特に急激な時代の流れに沿って通信手段は手紙から電話に移りつつあったけれど、戦争を経て命の儚さや日常の突然の喪失を経験をした後だからこそ今いる人の想いを時を越えて残す手紙の良さをTVシリーズに続いて感じた。一方で、新興の通信手段である電話の距離を瞬時に越えて想いを伝えられる良さも描写され、手紙に焦点を当てたこの作品で電話がただの憎らしい存在に終わらないところは根底にある人に想いを届けることの変わらない大切さを感じた。この電話の最初は手紙の敵のように描写された後に活躍の場面を経て見直された様はどこかディートフリートに重なるようにも思えた。
ブーゲンビリア家の2人の生き様には、自由であろうとしていたのにその歯車は真逆に回っていってしまう運命の皮肉さに悔しさや悲しさのような複雑な無常さを感じた。
ディートフリートはTVシリーズの終盤でも察せられていたが、ヴァイオレットへのキツい当たり方をしてしまっているのは弟の存在が大事であるからこそということが劇場版で改めて感じられた。さらに、ディートフリート自身が自由であろうとした結果弟の自由を奪ってしまった葛藤やその想いを通じてヴァイオレットへのキツい態度が彼女に寄り添うように変化していった姿には、彼の不器用な優しさを感じた。
ギルベルトのヴァイオレットを自由にしてあげたいと願うもヴァイオレットを武器としてしまった苦悩や罪悪感は、彼自身も軍人となる運命に縛られていたと思うととても痛ましく感じた。1人の少女を幸せにしたいだけなのに、時代や宿命に阻まれ、それを自分のせいだと責めるギルベルトの姿には悔しさすら覚えた。また、ギルベルトがエカルテ島で子どもたちを相手に先生を引き受けたのは、ヴァイオレットに美しいものを愛でたりする普通の子になって欲しかったがそうさせてあげられなかった無念や罪悪感を昇華するためだったのかなと思ったりもした。
ギルベルトとディートフリートの想いの逆行には無常感があったが、ホッジンズのヴァイオレットに対して過保護になりすぎてしまう姿は父親のようで微笑ましいものだった。ヴァイオレットにとってギルベルトが「優しさで編み続けたゆりかご」ならば、ホッジンズの過保護さは「優しさで編み続けた鳥かご」のように思えたが、ヴァイオレットを大切に思うあまりに行き過ぎてしまう彼の優しさは温かかった。
こう褒めちぎってきたこの作品に1つだけ不満があるとすれば、ヴァイオレットとギルベルトが再開した場面でヴァイオレットが「私は少佐を…」の先を結局言葉にできなかったのは少し歯がゆさを感じた。しかし、エンドロール後の最後に2人が指切りをしながら見せてくれた幸せそうな表情は、エンドロールを前に僅かに残っていたもやもや感をは安堵に変わったし何より嬉しかった。また、同時にエンドロールの最中に退席してしまった人への少々の不快感がこの場面を見れなかったことへの同情に変わりもした。2回目の鑑賞時にも、やはりこの場面への歯がゆさが一瞬思い出されたが、「私は少佐を…」の後のギルベルトの「愛している」がその続きを補っているようにも聞こえて、これはこれで2人の最後に満足することができた。
おとぎ話の夢
今作ではヴァイオレットに加えて、デイジーという2人目の主人公がいた。特に最後の彼女がエカルテ島を訪れる場面やその後の手紙をしたためる場面では、60年前は整備されてなかった土の道がコンクリートで舗装されていたり、ヴァイオレットたちのまるで童話の登場人物のようにカラフルな服装に対してデイジーの服装は落ち着いた現代感のあるもので、突然おとぎ話の夢から覚めたような現実に引き戻されるような感覚を得た。この寂しさを帯びた感覚は、この群像劇で描かれた過ぎ去る年月やその時々の出会いや人々の存在の尊さを深く印象付けていたように思う。
あと、テイラーはC.H郵便社跡の博物館の集合写真で真ん中左の方に中腰で映ってましたね。
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