「物語の読解、演出の解体、世界観の抽象化」
「劇場版ヴァイエヴァ」─少佐と彼女の心の扉─ 感想と考察
舞台挨拶で監督が言っていたように、この映画はとても丁寧で緻密な作品で何回見ても新しい発見と感想があった。ここではそれらの考察?のような感想とはちょっと違う雑感を纏める。
この記事を書いた時点で3回この作品を見ているが、シリーズの積み重ねを経た上でのサプライズ的な展開が感動の増幅装置の1つでもあるのでTVシリーズの予習は必須だし、特に初見の鑑賞は大切にして欲しいなと2度、3度と見る度に思った。
そして、1度だけじゃなくて何度も見ることで噛み締められる楽しさもある。例えば何度も見て物語を解していくと、場面場面に挟まるカットで焦点の合わせられる植物やインテリアにはその場面の文脈織り込まれているということに気づけ、それらに重ねられた文脈について想像を巡らす楽しみもあった。いくつかのそういった場面と自分の解釈や想像を以下に示してみる。
海とヴァイオレット
ライデンの市長がヴァイオレットの海を称えた賛歌を褒めた時には、当然ヴァイオレットは海を背に画面の中央に映し出されていた。しかし、戦争での活躍を褒められたことに対して、多くの命を奪った自分は讃えられるような存在ではないと言った時のヴァイオレットは画面の端にいて、讃えられるのは画面の中央に広がる海だけと言いたげな表情をしていたのは印象的だった。
蝋燭と義手
代筆を始めようと手袋を外した機械製のヴァイオレットの腕にユリスが驚きヴァイオレットが義手だと説明する場面で、病室のぼろシャンデリアのカットが挟まる。このシャンデリアのいくつかの蝋燭のうち2本だけが溶け切っていて不思議に思ったが、その根本しか残っていない様がヴァイオレットの失われた腕のようだと気づいた時には合点がいった。
ブーゲビリアの花として
ディートフリートの回想で、父親がギルベルトの花を指して「うちの花」だと言った。それに対しディートフリートは本当に見せたいのはこれだろと陸軍の兵士たちを指したように、父親がディートフリートとギルベルトに見せたかった、指し示したかったのは家の名前を冠したブーゲンビリアの「花」ではなく、代々軍に仕えるブーゲンビリア家の「華」である軍隊だったのかなぁと思った。
ヴァイオレットとギルベルトと心の扉
ヴァイオレットにホッジンズがギルベルトはお前に会えないと言っていたと告げるもヴァイオレットはギルベルトに会おうとを駆け出して学校の門を突っ切った。はやるヴァイオレットの気持ちのように門の2枚の扉の片方は勢いよく開け放たれるが、もう片方の扉が閉ざされたままであったのはギルベルトの心のようで感傷的だった。
少佐も燃えている
ヴァイオレットがギルベルトの家に押しかけてきたところで、彼はヴァイオレットを幸せにできなかった、だからお前には会えないと告げた。そこでギルベルトの前でぐらぐらと湯を沸かす炎は、かつて手紙を通して人の感情を知ることで戦争で自分が奪った命への責任への葛藤に苦しむヴァイオレットがそう言われたように、ギルベルトもまた燃えているということの象徴のようだった。
sincerly
最初にsincerlyと意味ありげに映し出されたが、これがヴァイオレット・エヴァーガーデンにおいて何を意味しているのかと思った。sincerelyの意味や用法には「敬具」や「心から」」などがあり、今作が「ヴァイオレット・エヴァーガーデン」のシリーズを締め括る物語と踏まえて「敬具」とも解せるし、あるいは少佐の「心から愛している」という台詞やシリーズの主題である素直な気持ちを伝えるということを受けた「心から」とも解せる。または、この花が似合うようにとヴァイオレットに名付けられたスミレの花言葉に「誠実な愛」という意味がある。厳密にはfaithfulやhonestyな愛のようだが、ギルベルトの愛しているに導かれて自分の感情や思いを見つけ、彼を追い続けてきたヴァイオレットには自分の思いに沿ったまっすぐな愛、「sincere love」が似合うような気もする。
アイリスと電話
アイリスが電話で代筆の依頼を受け、忙しいヴァイオレットの代わりに自分ではと言うも客に断られた時のあからさまな不満そうな声は、初見時には仕事に対する負けず嫌いさの表れかと思っていた。しかし、こんないけ好かない機械と評した電話が後に手紙ではどうしようもない場面で活躍してアイリスも電話のことを見直したことを思うと、この時の彼女は手紙こそが想いを届けるのであって電話には無理とか思っていたのかなぁと思ったりもした。
海の賛歌
ヴァイオレットの書いた海の賛歌で綴られていたのは、海のどこにでもあなたはいつもそこにいて寄り添ってくれているというようなことだった。ギルベルトとヴァイオレットの想いも、この賛歌に重ねるように、互いに互いがそばにいて欲しいしそばにいたいというものであったし、ヴァイオレットも少佐を想ってこの賛歌を捧げたのかなぁと思った。
最後に再び60年後の時系列に戻ってくると、エカルテ島の姿は一変していた。道路はコンクリートで舗装されて電柱が並び立ち、島民の服装も60年前の貧しい島での生活を反映するようなものではなかった。また、60年前は島民総出で行うぶどう栽培だけが唯一産業のようだったが、60年後ではデイジーが手紙を書いていたカフェといったものまでもあり、この60年間の島の発展はもしかしたら、ギルベルトの作った収穫した葡萄を運ぶ運搬機から始まったのかなぁと思ったりした。
また60年後のデイジーの物語を振り返ると、ヴァイオレットの物語を追いかけてきた自分のような視聴者が重なった。
デイジーのことをアンの手紙とヴァイオレットの記事がC.H郵便社跡に導き、そしてC.H郵便社跡の博物館からエカルテ島へとヴァイオレットの姿が描かれた切手が導いた。導かれた先のエカルテ島では未だに手紙が国内一盛んであり、ヴァイオレットの残した道しるべの終着点に辿り着いたデイジーは古風な手紙が自分の素直な想いを書き出せるもので、その想いを大切な人に今伝える大切さを知った。
最後のヴァイオレットを歩く姿を上から見下ろして追い越していくシーンは、ヴァイオレットの足跡を辿り、ヴァイオレットの残したものを受け取り、それをまた残していくデイジーや視聴者である観衆の視点かのようにも感じた。
そして、「花はやがて土に還り芽吹いていく 新たな若葉を育てていくのでしょう」と歌う主題歌のWILLはこのことを強く印象に残してくれた。
「未来のひとへ」の歌詞が「わたしが生きる未来にはどれだけ理由が溢れているの」に差し掛かったところで、エンドロールでサポーティングスタッフの名前が流れてきた時には色々なことが頭を巡った。
冒頭の60年後の場面で、ぼろぼろになっているけれどアンの人形がちゃんとあって幼かったアンがこの人形も持ってお母さんに遊んでとせがんでいた場面を思い出してしまって上映開始すぐ泣く。
舞台挨拶で石立監督が言っていたように博物館の案内人ネリネはしっかり居眠りしていたし、 2回目の舞台挨拶で言っていたらしいヴァイオレットのギルベルトへの手紙の読み上げられなかった最後の一文は、ユリスの両親に宛てた手紙で大好きだよに当たる文字列と同一に見えたので、やはり愛しているだろうと思う。
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