「物語の読解、演出の解体、世界観の抽象化」
「聲の形」から考える自他との向き合い方 感想と考察
今回の感想及び咀嚼の仕方は自分でも非聴覚障害者や加害者として都合の良い受け止め方をしているのかなぁと思うところもあったけれど、自分のそういうところに正直にならないで目を逸らし続けていても何も得られないし、それこそ潔白を偽る自己保身的なことだと思ったので、前回見た時よりも想いのままに書き記す。
去年見た時の感想。
聴覚障害者って多くの人、特に子どもにとってはある種未知の存在のようで、物語中でも時折硝子の行動の意図が分かりにくいと感じたところがあった。
硝子の周囲の人とのそういったすれ違いは、自身の気持ちを上手く言葉に表せなかったり、人一倍仲良くなりたい気持ちからの行動が多くの人の尺度では理解されづらかったりという多かれ少なかれ聴覚障害に由来していることによるものが多かったと思う。悪口の書かれた筆談ノートを硝子が大切にしていたことも、硝子にとってはそれが普通の友だち同士がやっている他愛のないからかい合いのようなものだったからかもしれない。だけど、将也たちにすれば悪意を込めた行動に対する硝子の反応が彼らにとっての普通では理解できないもので、戸惑っていたのだと思う。
序盤の結絃や硝子の母親も被害者の家族としての思考に囚われがちだった。また、将也だって加害者としての罪悪感に取り憑かれていたし、上野の平穏に仲良くやっていたい思いや、川井の自己保身さ、佐原の逃避しがちなところも、誰しもがそれぞれ何かに囚われた思考の中でしか自分や他人の見えない気持ちに結論付けることができず、すれ違っていってしまう。
そして、それぞれの立場から見たフィルターに加えて、罪悪感からの後ろめたさ、建前、時には照れで本音を隠してしまうことが重なると、そのすれ違いはより決定的で元に戻れないようなものになってしまう。
この物語では小学校でのいじめがもう元に戻れないようなすれ違いの要因だったが、幸か不幸か加害者と被害者が逆転してしまうような事件が起きて元の形に戻ることができた。相手の立場を身を持って知り、理解できた。
この物語の一番好きな場面に、最後の文化祭のところで上野が硝子にバカという手話を送る場面がある。上野の何も気を遣わない態度がもしかしたら、腫れ物のように扱われがちな硝子にとっては嬉しかったのかなと思う。もちろん色々親切にされて優しくされることも硝子は嬉しいと思うけれど、聴覚障害者という壁を突き破ったある意味で普通のコミュニケーションは特別だったのかもしれない。
以上を書き終えたところでもやっぱり自分に都合の良い受け止め方で原作やアニメの制作者の意図と重なっているような気もするし、していないのかなとも思ったりする。だけど、自分を構成する色々なものを通して見えてきた以上のことは偽らざるものである。そして、他の人の正反対のような受け止め方があったとして、それがどうしてなのか想像してみたりすることが「聲の形」を見た一人として誠実で正しくあれる方法なのかなと思う。佐原の言っていた見方を変えるってこういうことかなと思いつつそう信じたい。