「物語の読解、演出の解体、世界観の抽象化」
「シン・ゴジラ」─日本という日常の崩壊と真価─ 感想と考察
本物の現実の崩壊
その圧倒的な異物によって、日常の風景が世界があっと言う間に崩れて去っていく光景には恐怖なのか、悲しみなのかその理由すらもわからない涙が湧き上がってくる。
保守的な文書主義と保身的な政治によってがんじがらめなその国は、余りに私たちの生きる日本という名の国家とそっくりであった。ヒロイックなハリウッドのKAIJU Film、あるいはどこかアニメのようでさえある日本の特撮怪獣映画1の舞台でもない、まさしく私たちの住んでいる世界が崩れ行く姿があった。
自衛隊の防衛出動の場面、あれこそこの国にとって日常の喪失を最も印象付けるものだから涙で視界が溺れてしまうし、東京に熱核攻撃の迫る場面で本気で悔しさと世界が消滅するかのような絶望を感じる。
「この国はまだまだやれる」
だけど、そこには現場で全力でその国を守るために奔走する人々の姿もあった。国の存亡となれば、お上さえ腹を括って覚悟を決める。まさしく下から上まで全てが現場となって、その真価を見せた時だった。だからこそ内閣総辞職ビームを食らって上が誰に挿げ替わろうともこの国は機能するのかもしれないと、自嘲的な誇らしさすら感じる。
そして、最後にゴジラを倒したのはどこかのヒーローでもド派手な武器でもなく、化学プラントと建設機械と列車であることが全て感じるものを本物足らしめてくれる。無人在来線爆弾が彼らだけではなく、私たちの勝利と誇らしさにしてくれる。そして「危機というものは日本でさえ成長させるようだ」という台詞が与えてくれるエネルギーもだ。
個人的に感じている先暗い世情もあってとても鋭利に突き刺さる作品だった。
そして、言葉を重ねるようだが、劇後のエンドロール上に協力としてクレジットされる耳馴染みのある企業名や省庁名、自治体名が改めて特撮映画以上の実感をもたらしていた。
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といっても見たことのある怪獣邦画はシン・ゴジラ以外では平成ガメラ3部作のみ。 ↩︎