「物語の読解、演出の解体、世界観の抽象化」
「さよならの朝に約束の花をかざろう」─愛に導かれるマキアの人生─ 感想と考察
「愛」とは
愛には二つの種類があると思う。一つは純粋な真っ直ぐな愛、もう一つは嫉妬のような拗れた愛。
これは、そんな愛を確かめるための物語。
愛を紡ぐ一族
時間という経糸と人の生業という緯糸からヒビオルを織るイオルフ。彼らは別れの一族と呼ばれる。長命の彼らが一族の村を飛び出してしまえば、そこにはたくさんの別れが待っている。なぜなら、多くの人からそれは異端と排斥され、あるいはたとえ愛してくれる人がいても私たちよりずっと早く旅立ってしまうから。
「誰も愛してはいけない。愛すれば本当の一人になってしまう」
そして、長くて短い数奇な運命が幕を上げる。
真っすぐな愛
イオルフの一族のマキア、彼女は孤独だった。村を破壊され、拠り所もなく。そんな中で、彼女は自分と同じように母を失った孤独な赤ちゃんを見つける。一人ぼっち同士の出会い。その子・エリアルは、マキアにとっての「ヒビオル」。その子によって、たった十五の少女は「母」となった。
そして、いつまでも老いることのない母に対して、みるみる大きく育つ息子。マキアはそんなエリアルがだんだん大きくなる姿を見て、「このままずぅーっと大きくならなければいいのに…」とつい思ってしまう。だけど、エリアルは「ヤダ!おっきくならないと、母さん守れないもん!」と応える。その時、マキアの目に滲む涙の色は何色をしていたのだろうか。エリアルが大人になっていくことを止められない寂しさの深い藍なのか。それとも、愛した分だけ愛が返ってきてくれたことへの喜びの淡い水色なのだろうか。ただ、その頬を伝うものの正体が愛であることは確かなことである。
だから、独り立ちしていく一人息子を、いつまでも小さな子どものように扱ってしまう。そうしないと変わりゆく息子の背中に寂しさを募らせてしまうから。そうして、いつまでも息子というのは息子であり、変わることのない無際限の寵愛を注ぎ続けられるのだ。
禁断の愛
一方で、息子・エリアルの想いは母のような真っすぐなものではあり続けられなかった。母の愛を受けた身体と心はどんどんと大人になっていく。変わり続けるエリアルは次第に母からの無償の愛を真正面から受け止めきれなくなって、はねつけてしまう。彼はもうマキアを「母さん」とは呼ばない。
それどころか、マキアが実母ではないことと、幼い頃から変わらない美しい母親の姿がさらなる捻れをもたらす。きっとエリアルはもうマキアをただの母として直視できなくなっていた。彼女との間に血の繋がりがないと知った時、どうしてマキアは自分のことをこんなにも愛してくれるのか、マキアの愛をどう解釈したらいいのか分からない。
その真意ははっきりとは描かれない。しかし、「俺はあなたのことを母親だなんて思ってないから」という言葉に秘められたエリアルの心中は、マキアを母という存在を超え、一人の女性として愛してしまいそうになっていたように映る。そして、だからこそ、エリアルはマキアの許を巣立つのだ。母を母のまま愛し続けるため。
そして、彼は父親となり、妻のディタや住み着いたメザーテの街といった新しい場所に愛の拠り所を見出していくのだ。
嫉妬の愛
そんな母子の別れの裏で、マキアが攫われてしまう。その犯人は同じイオルフのグリム。彼は「ヨルフの一族同士、一緒じゃなきゃダメなんだ」と言う。「人々に裏切られ、別れを突きつけられ続ける僕たち、イオルフは共に居なければいけない」と。だがしかし、そのグリムの愛そのものが、マキアにとっての「孤独ではなかった」過去、エリアルたちとの幸せな日々を否定するものであるのだ。
強引に囚われた果てに望まない妊娠をさせられたレイリアを救出しようとした先でも、また彼は突きつけられる。確かにレイリアにとって、娘は望んで産んだ子というわけではない。でも、今は愛おしくて仕方のない最愛の存在なのだ。
イオルフの村にいた頃からずっと愛していたものが、今は自分を愛してくれないこと。それをグリムは受け入れられなかった。果てしない長命を生きるイオルフにとって、変わることのない愛が変わることを理解できなかった。
しかし、変わらない中にも変わるものがあるのだ。グリムが幼い見た目のままにその心も変わらなかった一方で、マキアとレイリアは外の世界で出会った者を愛し、それと共に彼女たち自身も少しずつ変わっていったのだ。
全ての愛を愛そう
別にどれが良いとか悪いというわけではない。糸だから、真っ直ぐなものもあれば、時には捩れたようなものもある。すれ違う愛というのも、別に哀しいことではない。そういった糸が機織り機の上で重なり合い、時にすれ違い、でも結局は一つの布に織り上げられていく。それがヒビオルであり、人生となる。
産気づいたディタを見つけて助けるマキアがそうだ。エリアルが自分に代わって新たに愛したディタとその子のことを、マキアはエリアルと同じように愛する。そして、産まれた子を見て、マキアはエリアルと出会った日のことを思い出す。これこそが連綿と編まれる「私のヒビオル」なのだ。
そして、エリアルと再会したマキアが言う。「誰かを愛するという気持ちあなたが教えてくれた。そして、私と一緒に生きてくれるから、苦しいことも辛いことも和らいでいく。そうやって、あなた自身が私のヒビオルになって、エリアルのことを思い出せば、私も自分のことを思い出せる。そうやって今の私を織り上げてくれたのはエリアルだから。」
マキアは本当の意味でエリアルの母親にはなれなかったかもしれない。だけど、エリアルと一緒に過ごして共に同じ感情を共有してきた時間が、まさに母子のように、いやそれ以上に一体だったのだ。そして、その中で育まれた絆がいつだって心の中でマキアに勇気をくれて、守っていてくれた。「あなたに愛されている私」というアイデンティティを教えてくれたのだ。だから、マキアはエリアルの新たなる幸せを願って、彼の妻と娘が待つ新たな居場所へと送り出す。
愛すれば愛する程に、その人の幸せを願って別れなければいけない時が来る。だけど、それは哀しいことではないのだ。なぜなら、愛にはカタチがないから。たとえ別れようとも、その心に織り込まれた愛は生き続けるから大丈夫。
愛とは、あなたでわたし
だから、愛とはすべて丸ごと愛することなんだと思う。それは私を愛してくれるあなたのこともそうだし、私ではない誰かを愛したあなたという存在も引っくるめて、あなたのことを愛していることなんだと思う。だから、愛し合って同じ道を生きてきたけれど、途中で道を分かたなければいけない時も笑顔で送り出せる。
また、愛することというのは、愛した相手によって形作られた自分自身を愛することにもなるのだと思う。どうしようもなく忘れられない愛の想いが、愛したあなたという存在を私の中で生かし続ける。だから、一人でもあなたと共に苦楽を共に分かち合える、本当の意味で一人ぼっちじゃなくなるのだ。
そして、何よりも他の誰よりも長く生きて、他の誰よりも愛した者に別れを告げられなければならないヨルフの一族だからこそ、この深遠なる愛の形に出会えたのだと思う。
新たな愛を求めて、今歩き出す
だから、この最後の場面が待っている。あれから何十年の時が経ったある日、相変わらず幼い少女の見た目をしたマキアはエリアルの許を訪れる。もう彼はすっかり老いて衰弱しきっていた。わかっていたけれど、マキアはやっぱり母としてずっと一緒にいてあげたかった。だから、もう老いて旅立つエリアルの姿が悲しくて、苦しい。でも、たとえあなたがいつかこの世から旅立つ日が来ても、私が生きている限りあなたのヒビオルは続くことを彼女は知っている。
時の流れの中で出会っては別れることを繰り返しながら織り上げられるヒビオル。その別れの先には新たな出会いが待っている。顔を上げれば、そこにはマキアが助産したエリアルとディタの娘がいて、すっかり母親になっている。そして、そのまた娘も村を駆け回り、無邪気にマキアに話しかけてくれる。この全部、全部をエリアルとの出会いがくれたのだ。
かつてヨルフの村で長老は言った。「誰も愛してはいけない。愛すれば本当の一人になってしまう」と。だけど、この苦しいだけじゃない別れに、マキアはエリアルを愛して良かったと思えた。愛したことで人生が、世界が広がった。そして、愛と別れを経験する中で生まれた新しい出会いがさらなる愛を繋げていくのだ。
別れの涙が空へと舞い散る中、彼女は再び歩き出す。笑顔で新たな出会いと愛を求めて。
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