「物語の読解、演出の解体、世界観の抽象化」
「クオリディア・コード」─クオリディアと世界の意味─ 感想と考察
クオリディアコードとは、2016年夏クールにオンエアされたアニメであり放送から4年も経っていることに個人的には驚くのだが、一般的には作画崩壊で不名誉に有名かもしれない。しかしその他の点では素晴らしい作品である。まぁ、それについてはまた別の機会で…
とにもかくにも未視聴ならばとりあえずは公式サイトを、そして本編も見てくれ
クオリディアとは
クオリディアという聞き慣れない単語、調べても語義が出てこないがググったりサブタイトルを見返している内にある気づきを得た。
それは…
Qualidea=Qualia+Idea
そういうわけで、この物語の展開の中でも大きな転換点となる8話、9話のサブタイトル「反転のクオリア」「反獄のイデア」にも冠されているクオリアとイデア、この二つの単語に焦点を当ててクオリディアコードとは結局何なのかということの自分なりの考えを述べたい。
イデア論とクオリディアコード
そもそものイデア論とはというところだが、簡潔に説明しづらいので「太陽の比喩」やここで言及する「洞窟の比喩」などの分かりやすい例があるのでそのあたりを参考にしつつ各自ググって欲しい。
さて、イデア論とクオリディアコードについてだが、このアニメは簡潔に言えばプラトンのイデア論の洞窟の比喩だと思う。
その洞窟の比喩とは、洞窟の中で入口に背を向けさせられた囚人は背後で燃える火に照らされて洞窟の壁に映る物体の影を見てそれが本物だと思い込んでいる。やがて囚人は解放され、影の本体を目にすることができるようになるが初めは影が本体と思い込み続ける。しかし、だんだんと真実に気づけるようになる。そして、ここでプラトンは解放された囚人に再び洞窟に戻り残された囚人に真実を教えなければいけないと説くというものである。
これをクオリディアコード的に言えば、アンノウンの世界に囚われた子供たちはコードを通してアンノウンの世界を人間の世界と思い込まされている。しかし、カナリアを皮切りに子供たちが徐々に本来の人間世界へと脱出し世界の真実を知った。そして再びアンノウンの世界へと戻り残された仲間たちを救い出していくというような具合だ。
クオリアとクオリディアコード
まず、クオリアの意味だがWikipediaによると
簡単に言えば、クオリアとは「感じ」のことである。「イチゴのあの赤い感じ」、「空のあの青々とした感じ」、「二日酔いで頭がズキズキ痛むあの感じ」、「面白い映画を見ている時のワクワクするあの感じ」といった、主観的に体験される様々な質のことである。 [クオリア - Wikipedia](https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%82%AA%E3%83%AA%E3%82%A2)
さらに、ここで引用したいのが「逆転クオリア」である
逆転クオリア(ぎゃくてんクオリア、英:Inverted qualia)は心の哲学で議論される思考実験の一つ。同じ物理的刺激に対し、異なる質的経験(クオリア)が体験されている可能性を考える思考実験である。 この思考実験の内容は次のようなものである。同じ赤色に相当する周波数の光を受け取っている異なる人間は、同じ質感を経験しているのか?ひょっとすると全く違う質感を経験しているのではないか? たとえばあなたが熟れたトマトを見ている時に感じる色(赤色)、これが別の人にはまったく違う質感で感じられているかもしれない。 [逆転クオリア - Wikipedia](https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%80%86%E8%BB%A2%E3%82%AF%E3%82%AA%E3%83%AA%E3%82%A2)
8話のサブタイトル「反転のクオリア」に似た響きを感じる単語であるが、まさしくクオリディアコードで子供たちがコードによってアンノウンの世界を人間の世界と認識させられていたことのように思える。
結局…
この物語では結局、子供たちの育ったアンノウンの世界は偽りの世界であり、本来の人間の世界が真実の世界であるということになった。
しかし、子供たちがアンノウンの世界で過ごした日々は偽りということにはならないし、子供たちがより多くの時間を過ごしたのはアンノウンの世界でありある意味ではそちら側が彼らにとっての真実の世界とも言えるかもしれない。また、子供たちもその時々でアンノウンだったり人間であったりする大人の言われるがままの「真実」を受け入れているだけで、本当のところは何が本物で偽りなのかは分からない。
さらに子供たちには人間である実の親と育ての親とも言える夕浪愛離と朝凪求得という二つの親がいるわけで、真実が何であったとしても両者とも子供たちに対し愛情を持っていることは確かでありどちらかが偽りの親とは言い切れない。
結局は、物語の中では八重垣葵は最後にはアンノウン側に戻ってしまったが彼女にとってはそれが真実であったり、前述した逆転のクオリアではないが、絶対的なものなどなく各人にとっての己の感じるままのそれぞれの真実があるに過ぎないと感じた。
二元論であるイデア論を引っ張り出してきた割にはいささか本末転倒感ある感想が浮かんできた気もするが、そもそものイデア界に当たるものが作中での本来の人間界で、現象界に当たるものがアンノウンの世界であるのかすら子供達とっては様々な側面で定かではないのではという所感であった。
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