「物語の読解、演出の解体、世界観の抽象化」
「PSYCHO-PASS 3期」─たった一つの正義ではない、善悪の価値の意味─ 感想と考察
第4話 コロッセオの政争
認知不可、脳が楽をしたい悩みたくないという休みたがることを指すその言葉。
その脳の、人の思考の働きを利用して、外部から大衆の心理をコントロールしようとするのが小宮カリナの裏に潜む正体・AIのマカリナだった。そのAIが人間を誘導することで、人間に思考を放棄させることを促し、選挙を戦う小宮陣営のやり方。
だが、その根拠にある小宮カリナの思いは決して悪辣なものではない。平和のために必ずしも人々を目を開かせる必要はないと言う。暴力は人々が何かを求めることによって起こるものであり、それを政治の力で最小化したいという小宮カリナ、いやマカリナの言葉はまやかしなんかではなく、真実の彼女たちの言葉ではあるのかもしれない。
しかし、この都知事選挙を裏で操り、二人の選挙候補を操り人形の如く使って、大衆全てを手玉に取ろうとした者たちが暗躍していた。仕組んだのはコングレスマン。だが、その存在を知るものは公安の限られた人間だけで、ほとんどの人は知らずのうちに彼らの力学によって操作されている。
イグナトフ監視官が残した「理想の人間というのは、AIなのかもしれない」という言葉。この社会では、マカリナのように本体にAIがいて、小宮カリナのようにアバターとしての生身の人間がいる。人間性を失った人間こそが完璧な人間な社会だからこそ、イグナトフと慎導はシビュラシステムだけではない自分たちの正解を求めているのかもしれない。
第5話 アガメムノンの燔祭
色相を保ったまま犯罪を犯す組織、ビフロストたちが次に使うカードは宗教界。
限りなく科学的に市民を導き統制するシビュラシステム社会とは全くの対を成す存在のように思える宗教であるが、人の心理をコントロールして"善き"方へと導く点で、信仰もまたシビュラシステム的なものなのかもしれない。だからこそ、シビュラシステムは宗教を認めている現状がある。
ただし、今回の爆弾テロ事件のバックには宗教特区に反対する宗教組織のトップたちが潜んでいるようで。彼らは信仰で政治家や官僚といった力ある者たちを囲い込み、果ては武器を国外へ密輸出している。
そんな宗教はある意味ではシビュラシステム的かもしれない。だがしかし、人々の善悪のスタンダードを歪ませ得る点では、極めて反・シビュラシステム的な存在のように思えて仕方ない。そういう意味では、宗教は極めてビフロスト的であるのかもしれない。
第7話 Don’t take God’s name in vain
真犯人久利須・オブライエンが目論んだのは、差別を生んできた社会への復讐のために「終末救済者プラン」、入国者への国の犯罪の告発の計画の利用だった。
しかし、それもまたさらなる存在に利用されていた。教祖代行のトーリ・S・アッシェンバッハはオブライエンの計画を通して、都知事を消すことでコングレスマンの席を得ようとしていた。だが、シビュラシステムの裏をかいて盾突こうとするビフロスト、遂にそこにシビュラシステムは手を下すことを決めた。そして、執行される教団への強制捜査。トーリの陰謀は潰えた。
しかし、母・裁園寺に最終的に切り捨てられたトーリの最後の悪あがきで、裁園寺はコングレスマンの席を失ってしまう。ただ、それも引き金は同じコングレスマンの代銀によるもの。そして、それすらもう一人のングレスマン・法斑静火の誘導によるもの。無限に思惑が入れ子式に重なり合い、利用され続ける不気味なビフロストの闇の深さをまざまざと見せつけられた。
そこに思うのは、やはり自分の意思決定というのは真に自分のものなのかという疑念だった。知らずのうちに誰かの犬となり、そして利用され、勝手に使いつぶされていく。一体誰のために生きている人生なのかという問いすら浮かんでくる。
久利須・オブライエンは最期にトーリに病気にされたことで、自分の思いを果たす決心がついたと言っていた。一見、それはオブライト自身の決意のようであるが、それすらトーリの織り込み済み、さらにその上に繋がる者たちの操作結果に過ぎなかったのではないかと考えてしまう。
第8話 Cubism
まずは、サブタイトルの「Cubism」の意味の確認から。「立体の形態を分解して、平面の画面上に再構成すること。物の見方を変えることで、絵画の新しい可能性を開こうとした。」とされているらしい。
梓澤の狙いは「人間が社会の中で歯車であるならば、その頂点を目指す」ということ。そのために、コングレスマンの席を欲する。そんな梓澤の人を歯車としてしか見ていない視点は、極めてビフロスト的なように思う。人間をパズルのように当てはめ、不要になったピースは捨て去る。ビフロストの機構そのものだ。そして、それがシビュラシステムに挑戦した末にもたらそうとする彼らの社会秩序なのだろうか。社会の解体と再構成。
一方で、常守朱が求めたのは昔と変わらず、人の手に委ねられた正義の秩序。それは、政治のダイナミズムの中で自身の信念を曲げられたからこそ、自分の信念を貫ける社会を目指そうとする小宮カリナ都知事とも共通する。さらに、たとえ犯罪者であろうとも、全ての犠牲者を救おうとする慎導監視官にもその価値観は共通しているように思う。
だが、そんな崇高ではあるが、理想じみた脆さを抱える正義感は、強者だからこそ標榜できるものであるようにも感じられる。現に如月執行官には、自身の過去から生まれた己の精神的な弱さに付け込まれて、キツネとしてビフロストに利用されていた事実があった。
first inspector
公安局ビルを襲撃する梓澤、彼の行動の本質は分岐点を作ることだと言う。彼自身は何も手を下さない。ただターゲットたちが置かれた状況の中で、いかにシビュラシステム的になって生き残るのか。それをほんの試すことだけが、梓澤の成していること。敷かれた道を行くだけの者は早々と死に絶え、己の道を求める者だけが、シビュラシステム社会の中で存在を確立できる。そういう意味では、全ての起点であり、全てと関わらざる梓澤こそが最も己の道を行くシビュラシステムからも自由な存在なように映っていた。だから、彼はシビュラシステムにはなれなかったのかもしれない。
唐之杜分析官の言葉が印象的だった。今までずっと安全圏からサポートをしてきて、心のどこかで現場に出たいと思っていた。一方で、犯罪計数が下がっているという話、だけど、いざ外に出ると思うと怖くなってしまう。結局、私は臆病だった。でも、ここで自分の命を懸けて、前線でみんなを助けられたら変われる気がする。堂々と外に出て、自分で選択した人生の中で生きることがきっとできる。まさに、自分の意思で直接道を選び取る生き方の自由さと、そしてそこに求められる勇気の象徴を表す分析官の決意だった。
そして、シビュラシステムとビフロストの対決、結局、軍配が上がったのはシビュラシステムの方だった。また、それは同時にゲームの勝ち負けという二者択一の価値観ではなく、善悪という多面的で多様な価値観の勝利でもあった。
だから、梓澤はシビュラシステムに拒否された。最も正しくありたい、この世で最も崇高な神になりたいと願った彼のその理想はあっさりと残酷にNoを突き付けられた。彼は神が優れているから、自分自身もそうなりたいと願った。そして、自らの能力の優秀さを示そうとした。だが、それ自体が間違いであった。正負の二分法の価値観で存在を測り、二者択一の道という独善的な梓澤のやり方は、シビュラシステムの価値観とは真っ向から対するものだった。
シビュラシステムが真に求めるのは、正負を超越した多面的な判断の価値観であり、それはまた慎導灼であった。彼が免罪体質であることはもちろんその要件であるが、それと同時に犯罪者を梓澤すら殺さずに償わせるというその価値観こそがシビュラシステムに求められる理由だったようにも映る。自分自身の価値観で正義を切り拓く、その生き方こそが正義に適うと。価値観を自ら規定しようということこそが正しい価値観となるといったように。
そして、彼はまたシビュラシステムの一部となる資格を持ちながら、そうなることを拒否もした。なぜなら、シビュラシステムとしてではなく、慎導灼として正義を規定し、正義を執行するためだから。そんな風に彼の姿は見えていた。
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