「物語の読解、演出の解体、世界観の抽象化」
「PSYCHO-PASS 1期」─自分を生きる責任─ 感想と考察
平和で穏やかな日常や最適化された生活という普段の努力なしには手にできないものを当たり前の産物だと思い込んだ社会、それはシビュラシステムという神に与えられものであり、決して人類の社会ではない。
何が必要で、何が不要なのか。自分が何を成せばいいのか、誰が社会を害し得るのか。そんな煩わしいことを考えなくていい社会は確かに理想郷である。全てが最適化された功利主義を達成した社会。
愚かな人類の、偽りの理想郷
だけど、それは自分の意志や葛藤という生きる本質から逃げ出して、人間らしく生きる責任を全て放棄した結果であり、偽りの甘い蜜を零す理想郷は人間の愚かさの象徴のように映る。
そして、それは人から人足らしめるものを奪うことになる。神託の服従の積み重ねの人生はあまりにも無味乾燥とした空虚なものである。そんな人生はただの作業ゲーであり、ギャルゲ以下の価値も自分らしさもない、なんせルートは1つしかないのだから。
また、それは自分に対する責任を取らせてくれない。シビュラの神託が自分の選択と一致しないということは、すなわち弁解の余地のない程に自分が徹底的に否定されるということである。そもそも弁解する以前に自分自身でさえも自分が誤っていること疑義を感じ得ないように飼いならされているのである。
さらに、それは人を孤独にする。自分の人生に向き合う相手は、隣人ではなく、シビュラシステムであるべきなのだから。それに誰もが自分を失った社会では、どんな相手とも本質的な関係を築けない。
冒されざる領域
たとえある選択が間違っていても自分の責任である限り、それが自分の人生を形作るものになる。そうやって形成される自分が確かなものであれば、自分の本質たる内面に不可侵の世界を保つことができる。そして、そこがどんな自分も許し、律してくれる場所、ある意味で真に理想郷となる。その場所がある限り、たとえ社会から弾き出されることがあっても、”生きること”からは手を振りほどかれることなくしっかりと握り掴んでいられるのである。
とは言っても、これも過ぎると「葛藤から逃げることが許せない」が「葛藤しないことが許せない」になって、「鬱々とすることを止められないし、解決する気も微塵もない」みたいな不健康に陥ってしまう。
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