「物語の読解、演出の解体、世界観の抽象化」
「劇場版 輪るピングドラム 後編」─本当の自分は関係性の中にいる─ 感想と考察
この世は求められるか、求められないか
彼らの目には自分は世界から必要とされていないように映っていた。それはすなわち社会的認知死んだも同じ。だから、ふと自分を求めてくれる人が現れると、彼らの内面世界はただその一人へと収束していく。自分すら呪った自分を愛してくれる。だから、自分を見つけてくれたその人のために生きる。運命がここで変わる。
だけど、そこには常に代償が付き纏う。自分を愛してくれた人は永遠に去ってしまう。そして、思いは悲しみと憎しみに転化し、彼女を奪った人への復讐の炎をたぎらす。しかし、その敵もまた誰かの大切な人で、悲しみと憎しみの輪廻が廻る。その円環は複雑に重なり合って、誰もが大切な人との間で互いのために自分を破滅に追い込まなければいけないと信じるようになる。冠葉も昌馬も陽毬も互いのために破滅へと突き進む。
生きるということは予め運命付けられた罰である。その罰の痛みを分かち合うことがピングドラムの運命で、その運命の果実を一緒に食べることが「愛している」ということ。そして、全てを自分を愛してくれる大切な誰かと分け合うのだ。罪も罰も痛みも全部。そうすれば、どんな痛みも思い出を形作る一片となる。君と僕がいたことの証明となって刻み付けられるのだ。
関係性の中にある自分
誰にも必要とされないということは、自分自身も自分を必要としていないということ。だから、誰かを愛するだけじゃない、誰かに愛される自分を愛すること重なることで、きっと何者にもなれる自分になれる。一方的な愛じゃなくて、愛は我に帰るのだ。だから、あの3人にとっての何者であるかという問いへの答えは家族だった。求める自分と求められる自分が共に存在している「誰かとの関係性」の中にこそ、本当の自分があるのかもしれない。幾原邦彦監督はこの物語が描く世界観を「今の若い人にとってより切実なんじゃないかな。」と述べていた。一人一人が孤立して自分も他人も覚束ないがちな世界だからこそ、自分だけでもない他人だけでもない、その狭間に存在証明を見出すことを思い出さなければいけないのかもしれない。
予め失われた僕たちは、失われているからこそお互いの痛みも幸せも分け合い埋め合う。
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