「物語の読解、演出の解体、世界観の抽象化」
「お隣の天使様 1期」─愛を知り、地上に降りた天使の少女─ 感想と考察
天使様の物語
『お隣の天使様にいつの間にか駄目人間にされていた件』が、どんなアニメだったかを簡潔に言い表すと、まさにタイトル通りだったように思う。
「お隣の天使様」という言葉が感じさせるように、フィクションチックな劇的な恋を等身大に描いていた。そして、くすぐったくなるようなキュンキュンさせる描写も心を重くさせるシリアスな展開も、キャラクター本人たちが感じているそのままに感じさせられていた。
さらに、「いつの間にか駄目人間にされていた」というように、じれったくて甘々なラブコメ劇が繰り広げられる展開を前に、私もすっかり心がほだされてしまって、「こんな都合の良い妄想成分たっぷりのラブコメがしたい…」とバカなことを考えさせられてしまっていた。
#1 天使様との出会い
主人公の藤宮周、彼はどこか冷めた視線を持ちっていて、生活が崩壊し気味なところがあって。でも、それが天使様こと真昼の琴線に触れたようで。
そんな藤宮は真昼のことを天使様とからかいはするが、他の男子のようなむやみやたらに高嶺の花に向けるような視線は持たない。それどころか、可愛げがないとか、でもそんなところが接しやすいとか言い出す始末。
でも、藤宮のそんな扱いこそが、天使様をただの女の子にしてしまっていた。
#2 天使様と夕食
タッパー詰めの夕食を食べさせる、そんな真昼と藤宮の関係は、いつの間にか真昼が藤宮の家の台所で出来立ての手料理を振る舞うような関係になっていた。だからといって、そこに特別な感情が生まれたわけじゃない。それはまるで、恋愛関係から恋愛感情だけがすっぽり抜け落ちたような関係。
色恋とかそういう感情を抜きに、助けてあげたい尽くしてあげたいとか、それに喜んでくれた笑顔が嬉しいとか、そういう素直で純粋な二人の間の感情の発露が二人を繋いでいる。二人に恋愛感情がないからこそ、二人はここまで近づくことができたように見えていた。
だから、真昼にとって藤宮は初めての人なのだ。真昼にとって、誕生日とは知らない人たちがプレゼントを渡してくる日で、だから嫌いな日でもあった。でも、今年の誕生日、藤宮がくれたプレゼントは真昼の誕生日を初めて嬉しいものにしてくれた。年に一度訪れる嫌いな日が幸せな日になったのは、藤宮は真昼にとって知らない人じゃないから。その言葉は真昼にとって文字通り以上のことを意味をしているように聞こえた。彼が初めて自分自身を真っすぐ見てくれた、実は可愛げがないところも良いと言ってくれた。そんな天使なんかじゃない、椎名真昼として私のことを見てくれた初めての人が藤宮周だったということを彼女の胸に刻みつける出来事だった。
#3 天使様へのご褒美
突如、現れたのは藤宮の母。嵐のような勢いで、友達以上恋人未満の二人の関係を恋愛関係にこじつけていく…。触れたら溶けてしまいそうな二人の繊細な関係だろうがなんだろうが容赦ない勢いに笑うしかないというか、愉快とでもいったところだろうか。
その一方で、藤宮母が気付かせてくれたこともあった。それは名前呼び。真昼にとってそれは自分の親すらしてくれなかったこと。でも、今は藤宮が「真昼」と呼んでくれる。それはもう、真昼にとって藤宮が家族以上のものであることを示すようであった。だから、彼女が呼ぶ彼の名前も藤宮ではなく、周へと変わっていった。
そんな少しずつ進展する二人の間に次に差し込まれたのは、カギだった。緊急的に周が真昼に渡した周の家のカギだったが、周は真昼に持っていて良いと言う。それが意味するのは、もう言い訳できないくらいに二人はお隣さんや友達以上の関係。すると、必然的にクリスマスの過ごし方も変わってくるもの。真昼にとってクリスマスといえば、一人寂しいものしか知らなかった。だけど、今年は周が一緒にいてくれる。
#4 クリスマスの天使様
クリスマスの二人、真昼からの日頃の感謝の言葉に対する周の「俺は何もしていない」という返答に、真昼が重ねて返すのは「周くんには分からないとこで感謝していますので」という言葉。
それが意味するのはきっと当たり前なんだと思う。真昼にとっては当たり前じゃなかった当たり前を、周がくれた。こうしてクリスマスを誰かと一緒に過ごすこともそうだ。そうやって、周が真昼にとっての当たり前になってくれた。そのことに対する真昼の「ありがとう」だったんだと思う。
#5 天使様と初詣
新たな年の門出に真昼が知った幸せの気持ち、それは家族との団らん。周の父母と囲む食卓の味は真昼にとって初めてのものだった。そして、続く初詣で真昼が祈った「平穏な日常が続くこと」というのは、まさしくこんな幸せの日常のようなことだったのかもしれない。もちろん、周と家族になるという意味も込めて。
#6 天使様の贈り物
お正月が過ぎれば、訪れるのはバレンタインデー。真昼が周に贈ったのはオランジェット。そのチョイスは「甘いものはあまり好きじゃない」という周の以前の言葉を覚え続けていた真昼の想いが導いたもの。だけど、真昼だけがそのことを知っているという事実は、甘くないチョコレートにも関わらず、特別な「甘さ」を滲ませていた。
#7 天使様との約束
真昼と真昼の父母の話。そもそも真昼の父と母は互いに愛し合ったわけではなく、真昼という子を産むつもりもなかったという。だから、そうやって生まれ落ちた彼女は愛を知ることがなく、必要とされることもなかった。それが椎名真昼という少女。
それでも、彼女は愛が欲しくて、報われないと分かっていても頑張ってしまう。その果ての姿が天使を演じる彼女であった。だけど、彼女にとって、それは本当の椎名真昼ではなくて、でもみんなが求めるのはその天使を演じる椎名真昼で。そうやって彼女は、ありのままの椎名真昼になりたいのか、みんなに求められる椎名真昼になりたいのか、分裂した自分を抱えていた。だから、みんなに求められない可愛げのない椎名真昼も好きだと言ってくれる周は、真昼にとってただ一人心から自分を解放できる相手となっていた。周だけが全ての椎名真昼を受け入れてくれる存在だった。
#8 新学期の天使様
日々真昼が作る料理に捧げられた「おかげで俺は幸せ」という周の言葉が表すのは、真昼が一緒にいてくれることだとかそういった言葉通り以上の想いを感じた。そして、真昼は真昼で「こんな幸せを知らなかった私でも周を幸せにできるんだ」ということに、これ以上ない幸せを感じて身悶えていたように映った。私と彼だけの繋がり、それを示す淡くて愛おしい一場面。
#9 天使様とお出かけ
だんだんと二人の特別な関係を知る人も増えて、二人が互いにそうとは言わずとも既成事実化は進んでいく。そうやって二人だけの関係は、二人だけのものじゃなくなっていくことによってこそ、前進を余儀なくされるといった逆説。あとは当事者たちの想いのもう一押しだけ…。
#10 夢の中の天使様
最初は真昼が周に甘えたから、今度は真昼が周を甘やかす番。真昼も周の弱さを知って、それを包み込んであげたい、彼の弱さの拠り所になってあげたい。そんな真昼の欲求が「私にくらい甘えてくれても良いのに」という言葉に滲み出ているように聞こえた。それはきっと真昼を取り巻く小さな世界の中に、周という存在を全て閉じ込めておきたい、全てを知っておきたいという独占欲ような庇護欲のようなものの表れなのかもしれない。
だけど、そんな甘えて欲しいという真昼の言葉を恥ずかしがって突っぱねてしまう周は純粋で強情。天使な真昼を傷つけたくないからこそ、過剰に自分自身も純粋であろうとする周は、真昼の思わせぶりな恋人らしい誘いにも過剰に反応してしまう。
大人の階段を昇るような兆しさえある二人の雰囲気だけど、一方では、どこまでも子どもっぽい純情な幼さの雰囲気が二人の二人だけの世界として映るものだった。
#11 お隣の天使様にいつの間にか駄目人間にされていた
「周くんにしかそんなことはしてないです」と真昼に言わせておきながら、「無意識なスキンシップは勘違いさせるからやめておけ」と言ったりと、周には真昼のことが好きだからこそ、そこから先に進めないラインがあって、自分は好きだと暗に示しながらもどこか遠ざけるような言動をしてしまう。そして、真昼もその距離を詰めようと迫るけれど、そんな周の言葉に照れながらポカポカと叩いて応酬する以上のことができない。そんな触れれば壊れてしまいそうな淡くて透き通った関係はどこまでも愛おしい。
でも、真昼はそんな周に我慢ならないとこもあるのは確かで、それが自分も変わりたいという言葉に滲んていた。それは、もう天使様でいなくてもいいのかもという言葉。誰からも好意を向けられる飾った姿をしなくても、周はどんな真昼だろうが見つけていてくれる。周の前ならば真昼も真昼らしくあれる、私を私でいさせてくれるのだ。
だから、今度は私が周くんを見ている番。たとえ周が自分をそう思っていなくても、周のかっこいいところ、かわいいところを真昼は見ている。内に閉ざした真昼の心の扉を周が開けたことで始まった二人の恋は、今度は真昼が周の背こうとする心を真正面から見つめることで結ばれようとしていた。
#12 臆病だった自分にさようならを
踏み込んだ真昼は周が逃れられないくらいに好きを伝える。もう周にその想いに気付いてないフリをする選択肢はない。そんな真昼に、もう周も臆病でいることをやめる。恐れを越えて、真昼の心と向き合って、そして自分の想いを真正面から伝える。
だからこそ、周が伝える言葉は「大切にしたい」という誓いではなく、願望の形。決まりきった形式のように彼女への愛を飾り立てるのではなく、ありのままに自分の純粋な心を曝け出した意思として、彼はその愛を表す。それはきっと、真昼の天使様ではない等身大の真昼の姿に魅了された周だからな想いの通わせ方なのだと思う。
甘くて苦い…
ひたすらに甘いのだけれども、ふとした瞬間にビターさも感じさせる。だからこそ、二人の甘い恋の軌跡はよりいっそう魅力的になっていく。『お隣の天使様にいつの間にか駄目人間にされていた件』は、まさにそんな儚さと熱さが表裏一体にあるロマンスの物語だった。
その「甘い」というのは、もちろん主人公・藤宮周とヒロイン・椎名真昼の二人の想いを寄せ合う様子であるが、一方で「ビター」というのは、二人が互いに抱える心の葛藤である。周でいえば、真昼が大切で貴いからこそ、ある一定以上の距離から近づくことができなくて、かえって真昼にじれったく不安に思われてしまうというちぐはくさ。真昼の場合は、今まで誰にも自分自身を真正面から評価されたり、受け入れられたりすることができなかったという人間不信のような心の陰。
そんな二人の葛藤には、どちらも思春期らしさという共通点があった。周の他者との関わりも、真昼の自分自身のアイデンティティ。そのどちらも10代の少年少女の不安定な未熟さを表すと同時に、抱きしめたくなるような初心な可愛らしさを携えているという魅力を演出していた。
小さな恋に揺蕩う心
その一方で、そこには大きな違いもあった。周の葛藤は、いわば「好き避け」のような誰もが経験する種類の葛藤であり、おそらくほとんどの視聴者を共感へと誘う舞台装置でもあった。そして、真昼の葛藤は、いわゆる毒親や大袈裟にいえばいじめのようなもので、ともすれば重すぎるといった印象すら受けた。
そんな、おとぎ話のように鮮烈で劇的で、だけど手の届きそうな等身大さもあるというこの物語の一面。それを見ていると、だんだんと自分の感情が劇中のキャラクターたちとシンクロしていくような感覚さえ覚えてしまっていた。そして、そうやって「儚さ」「健気さ」は携えた思春期の小さな恋の貴さに身を揺蕩えるような感覚をもたらしてくれることが、この物語の一番の魅力だったように思う。
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