「物語の読解、演出の解体、世界観の抽象化」
「推しの子」─嘘と真実が炙り出す、ヒトの本性─ 感想と考察
6話『エゴサーチ』:見える虚像と見えない実像
バカが付くほど正直で真面目でまっすぐな黒川あかねに、恋愛リアリティショーというホントでウソなエンターテインメントは決定的に水と油なのかもしれない。丸っきりの虚構の役を演じるのでもなく、嘘が入ったり入らなかったりしつつも演じるのは自分そのものという曖昧さ微妙さは、根っからの役者である彼女の天敵とさえ言えるのかもしれない。
だけど、そんな実像と虚像に戸惑っていられる余地もないあかねは、正直者なりに精一杯の嘘をついてみようとする。そして、結局振る舞いはリアリティを飾り立てられても、心はまだ生身の黒川あかねのまま。そんな「自分」を演じきれない彼女だからこそ、「自分」という役へ向けられた罵詈雑言も「自分」から切り離すことができなかった。
演じることと下卑た妄想の産物
そんな陰鬱な正直さと嘘のコントラストの表象の一つが、黒川あかねとSNSユーザーだった。
黒川あかねは自分にも他人にも正直。だからこそ、女優としてのストイックさを貫くし、マネージャーのためにも挫けられないという思いやりや誹謗中傷にも真正面から向き合おうという悪手な姿勢にも繋がっているのだと思う。
一方で、SNSの連中が書き連ねる中傷は、画面の向こうで見えないはず・知らないはずの「黒川あかね像」という妄想。そして、彼らは見てもない嘘を加速させた末に、画面上に映る見まごう事なき端正な黒川あかねの造形を「ブス」とまであげつらい、妄想の余地もない真実までも嘘で叩く始末。
あなたの見ている現実は、ホントの真実ですか?
そんな展開を目の当たりにしていると、我々の現実における話として、顔だけを見て役者を品評している人はなんて健全なのかと思わずにはいられなくなってしまった。なぜならば、彼らは役者の人間性やプライベートといった知りもしない・見てもいない妄想ゴシップでは評価せず、残酷かもしれないけれど、それでも見たありのままのことだけで評価しているから。
そして、正直者が馬鹿を見るなんて言いたくないけれど、そんな悪辣なまでに、黒川あかねの正直さを貶める展開に、私は途中から共感や感情移入を拒絶してしまっていた。もしかしたら、感動を拒否するということも一つの感動の在り方なのかもしれないけれど、それをどう評価したらいいのか。これ程までの気持ち悪さはやはり受け入れざるべきなのか、あるいは真に迫った展開と演出であると讃えるべきなのかと思わされた。
また、このエピソードは、この展開の嫌悪感をどう評価するのかという問いによって、視聴者を試しているようにも感じた。あなたは劇中のSNSの連中は正しくないと言いながらも、その嫌悪感に基づいて、直観的にこの展開にネガティブな評価を下していないだろうか?実はあなたも、黒川あかねの表面だけをなぞって罵詈雑言を叩きつけるSNSの連中の一人ではないだろうか?とちくりと暗に指摘するようにも思えた。
9話『B小町』:アイドルとは、魔性で煽情的
このエピソードは、単純明快にキャラクターがとっっっても魅力的な一話だった。そして、日本のアイドル像を表す「未熟なかわいさ、身近な親しみやすさ」ってやっぱ良いよね!ということを感じさせられた。
まず、MEMちょ
彼女の底抜けの明るさとかアホっぽいキャラ演じる姿の裏に、実は不遇の境遇を経てなおアイドルの夢を追い続けてきたという過去。そんな経歴を前に、タレントとしての自分に引け目や自信のなさを感じながらも、それを隠すように明るく振る舞う姿の儚さ。上っ面をきゃるーん♡と飾り立てながらも、内にはアツい思いを燃やす泥臭さ。
完璧な自分じゃないけれど、それでも精いっぱいに夢を目指してる。そんなキラキラと画面に映る向こう側の、等身大のMEMちょの姿につい応援したくなってしまう衝動に駆られてしまった。
そして、有馬かな
彼女もMEMちょのように完璧ではないところに魅力の種があるのだが、MEMちょの自他共に認めるような不完全さとは少し違う。それは、傍から見れば彼女は完璧なのに、彼女だけが自分はダメだと思っているという種類の不完全さ。つまるところ、完璧主義が有馬かなの魅力なのだ。
象徴的な場面として、「マジ恋」でアクアと黒川あかねが結ばれたシーンが印象的だった。私だけがアクアの魅力や才能に気付いていたと思っていた…、アクアだけが私のことを見てくれていた…。そんな二人だけの繋がりを感じていたのに、彼があっさりとあかねに絆されてしまったような光景を見て、有馬かなは自分の存在価値まで疑ってしまっているようだった。
憧れに手を伸ばす姿こそ、ファンの憧れの対象
その根幹にあるのは、有馬かなの子役時代から人から評価され続けてきた経歴なんだと思う。人から認められなければ、自分がそこにいる意味はないという環境は、有馬かなを自分で自分を肯定してあげられないようにしてしまっていた。だから、有馬かなにとって、アクアを取られてしまったことは、ただ好きな人に否定されたというだけでなく、本来逃げ道となるはずの自己肯定すらできずに追い込まれてしまう材料になってしまったんだと思う。
そして、そういった背景がかなにあったからこそ、彼女はB小町のセンター争いにも及び腰になってしまう。でも、本当は演技のみならず歌唱の実力もあったりと、かなには彼女が思っているよりも遥かに魅力が詰まってる。完璧主義でストイックであるが故に、卑屈に自分を愛せない彼女だからこそ、欠けた心のピースを埋めてあげたいと愛おしい気持ちが湧き上がってきてしまう。そんな本人だけが自分の輝きに気付いていないというキャラクターは、ファンにとっては何より「推してあげたい!」と思わせるものであり、そういう意味で有馬かなはあまりにも煽情的で魔性で、恋焦がれてしまうのだ。
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