「物語の読解、演出の解体、世界観の抽象化」
「マギアレコード 3期 Final Season」─魔法少女は正義になれない─ 感想と考察
弱者は救えない、救われない
最終章「浅き夢の暁」・第1話で明かされた灯花とねむの過去、そして第2話で刻みつけられる魔法少女という存在の儚さ。
まどかみたいな奇跡の存在にはなれない灯花やねむには、自己犠牲だけでは全てを救うことなんてできやしなかった。いろはを救おうとした灯花とねむは、いろはを救えないどころかういをも失ってしまった。魔法少女といえど、本質はただの少女。そんな小さく脆い存在が誰かの災厄を背負うことなんて遠い憧れじみた幻にすぎなかった。
そしてみふゆやももこのように弱者同士が束になっても、誰かが代わりに犠牲にならない限り誰も救われない。それに救われて生き残っても、失った仲間を数える現実が結局救われない心の傷を刻んでいる。
弱者には他人を救えない。それでも救いたいのなら、それと吊り合う犠牲と引き換えにすることでしか果たせない。
絶望の輪廻
誰かを犠牲とすることでしか果たせない魔法少女の運命からの解放が、優しくて正しいいろはやういにできないなら、灯花とねむがその犠牲への罪を背負うことで成し遂げようとした。それがマギウスの翼であり、彼女たちの目指した魔法少女の救済。
みんなの絶望は魔法少女により救われている。でもそれはみんなの負の感情が魔法少女に押し付けられているというだけで、世の中から絶望の総量が減ったことにはならない。だから、絶望は墓場まで持っていくことでしか減らせない、どころか墓場に持っていっても残された人に新たな悲しみが生まれる。
世界から絶望の総量が減ることはない。誰かが救済を受ける時、誰かに絶望が押し付けられている。キラキラとした衣装に包まれた魔法少女の真実を知り、彼女たちに対する自らの無責任さと罪悪感が滲む。
弱者は正しくあれない
そして第3話、つくづく弱さは罪だと知らしめてくる……。黒江の抱えた絶望は、それでもまだ灯花とねむは強い魔法少女だったんだ…と気付かせるものだった。
黒江は弱さから助けを求める同じ魔法少女を見捨てることしかできなかった。そして、自分に救いの手が差し伸べられても、その罪悪感が助かることを許しはしない。
弱者は正しくあれないけど、かといって間違ったことを正しいと言い張る胆力もない。だから、私は間違っていると責めることだけが唯一の慰めであり、罪悪感だけがその罪を許してくれる。そうして黒江は弱さを共に絶望へと堕ち、魔女となる。
私たちの贖罪
最終回はハッピーエンドのような面構えをしていたが、魔法少女たちを運命からは解放できなかった。だからこの後も魔法少女はみんなの絶望を肩代わりし続けるし、全てを解決するには鹿目まどかという犠牲が必要になる。結局、人は誰かの屍の上でしか生きられないという意味で、これもまた人に課された運命なのかもしれない。
“Don’t forget. Always, somewhere, someone is fighting for you. As long as you remember her, you’re not alone.”
まどかマギカ本編の最終回で示されたこのメッセージは「まどかを覚えていることが力になる」という意味になるだろうが、無数の無名の魔法少女たちの存在を知った後では、彼女たちを覚えていることが唯一の贖罪であるという印象をどこかに憶える。“As long as you remember her, she’s not alone.“と書き換えたくなるくらいに。本編はまどかのようなヒーローが裏でみんなを助けてくれているという美談のように終わったが、この外伝は知らないところでお前の代わりに泥を被ってやってるやつがいるんだよという眼を背けたくなるけれど、不可知も知らないフリも許されない現実を訴えていた。だから、彼女たちの報われない物語を見終えた時に、私のために血を流してくれている名も知らぬ世界のどこかの誰かにごめんなさいと手を合わせなければいけなかった。
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