「物語の読解、演出の解体、世界観の抽象化」
「Fate/Zero」─残酷な騎士道と正義─ 感想と考察
聖杯戦争のことしか頭にないような人間ばかりの身内の争いのようでもあったFate/stay nightとは違って、Fate/Zeroは時計塔からの参戦者もいることで魔術師の世界の広大さを窺い知れたり、また現代兵器を用いた戦闘といった表の世界と裏の魔術の世界の交わりや、過去の英霊が現代世界に融け込むような歴史と現在の交わりであったりと、ファンタジーという面での奥行きがより感じることができ、また厨二心を触発させれくれて楽しかった。
また、時計塔という魔術世界の中心から参戦してるマスターの王道的な魔術を用いた戦闘や戦略は、過去の英霊を使役し戦わせる聖杯戦争の厨二病チックさを際立たせるもので、空想のものである魔術の存在によりさらに空想の聖杯戦争の滑稽さが増していたのはおもしろかった。
時空のクロスオーバーという面では、各サーヴァントがその身を以てこの世を生きていた時のことが物語られ、それが現在と過去のクロスオーバーであるだけでなく聖杯問答のように異なる時代や地に生きた英霊同士が影響し合い、ただ一堂に会する以上のクロスオーバーを見せてくれたこともより物語に引き込まれる要素であった。
騎士道
そもそも騎士道とは神に仕えるキリスト教戦士の道徳のようなものであり、また主人との関係は契約に基づいた双務的な主従関係であって主人が神の教えに反すれば騎士は主人を拒否してもよいとされているというが、この物語では明らかに示される部分以外にもことあるごとに主従関係という点でこういった騎士道の存在を根底に感じた。
切嗣とセイバーであれば、主人の切嗣の聖杯を勝ち取る戦略ための非道を許せない騎士セイバーの騎士道と主従の間の葛藤があった。
ディルムッドについては、令呪を途中でケイネスからソラウが持つようになったが元の主人のケイネスへの忠誠を維持していて、主人ソラウに対して神ケイネスような捉え方もできる。
言峰綺礼は遠坂時臣を聖杯戦争で勝利させるために協力させるという約束の下に参戦していたが、空虚な自分を導いてくれるギルガメッシュに唆されて時臣を裏切った。時臣とは契約的な無機質な関係にある綺礼がギルメッシュに導かれて悟りを開くようであり、この場合は騎士と主人と神との関係を最も表現していたように感じた。また、時臣が殺される直前に綺礼にアゾット剣を贈ったのもまるで騎士叙任式のようであった。
正義の味方
切嗣の人生を描いた2話の後のEDは歌詞がまさに彼の生き方であることに気づいて胸を揺さぶられた。正義を迷いなく実行できてしまうからこそほんの少し残された人の心が追いつかない苦しさや辛さへの感情移入やそんな在り方への客観的な悲嘆には胸に迫るものがあった。だからこそ、この聖杯戦争の救いのなさや不条理さを目にした時にはもう悲しみなどはなく、むしろただ唖然と茫然するしかなかった。そうして愛する存在を失ってそれでも再び愛する存在を拾い上げる切嗣には人らしさを感じると共に、人らしさを感じることができなくもあった。
言峰綺礼については、heaven’s feelで骨のあるやつだと思いFate/Zeroでも期待をしていたがギルガメッシュに唆されただけに見えてしまった部分が大きくて残念さが残ったが、その一方でより空虚な存在だった彼の過去への興味がより湧いた。
Fateの歴史の抽出の仕方は、ディルムッドのようなケルト神話の人物が自害に屈辱を感じるキリスト教的な信念や貴婦人愛という中世の宮廷的価値観を受けた騎士道を備えていたりと、サーヴァントとして英霊本人が召喚されているものの後に人に語られて付与された伝説や逸話上の性格を持ち合わせていることもあり、事実と歴史という点に考え至らせ得るものでありおもしろかった。
Fate/Zeroは戦闘シーンや厨二病チックな世界観のようなただ見るだけで楽しいシーンや、史実や逸話に基づいた英霊たちのキャラクター付けやエピソードといったある種の教養的なおもしろさや、聖杯問答や切嗣の生き方のような各人の信念に基づいた生き方や在り方を導く哲学の部分がそれぞれ物語の中に有り余るほどに詰め込まれていて、ただ観て純粋に楽しみながらも深く思考して楽しむこともできた。また、おもしろさや悲しみや辛さあるいは怒りや唖然とさせられたりと様々な感情を触発させるくれる作品であった。
また、heaven’s feelを見た後に本作を見たので間桐雁夜の桜を救いたい想いや臓硯や時臣への憎しみは大いに理解できたし、桜のために命を懸けて戦う覚悟は胸を揺さぶられた。桜同様に自身が魔術の犠牲となった雁夜の運命には言峰綺礼ではないが目が離せないものがあった。ただ、heaven’s feelを見てからだと雁夜自身が救われるべき存在なうちは彼に桜は救えないような気もした。
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