「物語の読解、演出の解体、世界観の抽象化」
「Fate/stay night Heaven's Feel」─正義と悪は誰にあるのか─ 感想と考察
善悪の所在
衛宮士郎は結果もたらされるものを以てして悪と判定するが、言峰綺礼は悪であれ元は善にも悪にも染まっておらず、悪でなれば周囲の環境にそうさせた責があると言う。人々が正しくありたいと悪を自らから排除して押し付けた産物であるアンリマユのことを考えると、この世全ての悪を背負った神は正しくありたいという人々の想いの下に産まれたという皮肉な悪の表出であり、人は必ずしも善性を持ち合わせず、聖人さえ悪を欠片も持ち得ないことなどないということの具現に思える。そして、その中で自ら悪性に対してどう考えるのかという点にこそ善悪の所在があると思えた。
この善悪に対してという点で、衛宮士郎の純粋に善性を求める姿勢ももちろん理解できるが、言峰綺礼の哲学は人間らしさを纏ったものであり、また正義に対する悪者がそうである弱さを慰め許す余地を与えてくれるようで同意と好感があった。また、綺礼の語る悪や彼自身や桜が体現する悪とは、絶望感や満たされない思いの裏返しにある罪の意識であり、それが幸せへの憎しみという嫉妬心として表出して他人から認めてほしいという欲求を生むものと個人的には咀嚼した。
また、間桐桜のことを考えると、悪とは不幸であり幸福が善であるとより思えた。姉との対比はもちろん、間桐の他人から奪う魔術という点でも、彼女は常に持たざる者と描写されてきたように映る。また、凛との姉妹の絆や士郎の許しを経た彼女にとっては、自分を誤りを顧みる際に罪の意識に押しつぶされて責を自分にただ向けることではなく、罪の意識から解き放たれ幸せであろうすることが善なのであろう。
エピローグで彼女は、以前はそこに士郎がいた凛の隣に彼女の妹として並び、失った11年間の空白を埋めるようにかつて彼女が羨み憎んだ満ち足りた日常を取り戻した。また先輩との時間を守りたいと願ったように彼女は衛宮士郎との幸せな日常も取り戻すことができた。そして「いつか冬が過ぎて新しい春になったら、桜を見に行こう」と約束したように、「誰も桜を責めず、桜が自分で自分を責めるしかないのなら、俺は手を引いて、ちゃんと陽の当たる場所に連れていって、他の誰が許さなくても、俺が桜の代わりに桜を許し続ける」と言ったように、桜は士郎に手を引かれて桜の木の下で待つ皆の下へと、この先の彼女の幸せな日々へ至る道へと一歩踏み出した。
戦闘シーンではその質量と速度において圧巻な情報量に圧倒された。瞬く間に次々とアクションが繰り広げられて疾走感に溢れるライダーの動きとアクションに付随する音の鈍重さと共に感じられるセイバーオルタの力強さが、緩急を伴うことで躍動感と重厚感が互いに相乗的に高められているように感じた。
また、ただ視覚的な見応えがあるだけでなく、ライダーとセイバーオルタの衛宮士郎からの力への信頼というせめぎ合いやセイバーオルタに止めを刺す描写は士郎の心理の成長に思いを馳せる点でも見応えあるものであり、士郎によって止めを刺される瞬間のセイバーの寂しげな表情は胸に堪えるものがあった。
聖杯の門である桜の中のアンリマユが力を強め、凛の下に影のみを飛ばした際に彼女に自分の主張が矛盾していると指摘された時には桜の影の腰の辺りを中心に影に波紋が走ったり、士郎に対し自らの制御を越えて触手を振るってしまった時には腹部を痛そうに抑えたり、また大聖杯の形そのものであったりというところから聖杯と子宮の関連の存在を感じた。実際にシリーズの他作品でこういったことが言及されているのかは認知していないが、キリスト教に関連する部分において聖杯と子宮の関連が指摘されていたりするようであった。
自分が作品を観て自分なりに思い及んだり受け取ったりしたこの感想群はこの作品を2度見て書いたものであり、1度目の鑑賞後と2度目では違った印象を持ったり、新しい視点を得たりすることができた。
1度目では兼ねてから衛宮士郎という人物が嫌いであったことも高じてか、彼の善悪との所在に対する捉え方に同意は欠片もなかったが、2度目では彼の桜を守りたいという意志やセイバーに止めを刺すことができた覚悟や純粋な善くありたいという想いの総合として一定の理解の余地を感じることができた。さらに、2度目では1度目を踏まえたイリヤスフィールの士郎に対する姉性を思わせる描写を発見することもできた。
また、第2章の最後で退場した慎二であったが、最終章を見た後にもう一度、特に第2章を見ると彼が救われなかった桜のように見えて仕方がなかった。魔術師としてという点や士郎に関しての凛に対する桜のように、魔力においては桜に、桜に関しては士郎に慎二は劣っていた。この彼の救いのなさは救われた桜の存在により悲痛なものに映り、またこの差について考えを至らされる。
さらに、1度目を鑑賞した後にFate/Zeroを見始め、まだ中盤まで見たところではあるが、間桐雁夜が桜を救おうと自らの身を削る姿や桜が姉と決別し間桐臓硯の思惑の犠牲になるエピソードを見た後であると、凛と対峙した場面で自らの苦しみを姉に訴える桜の姿やそれを理解してくれない凛はより悲痛さが極まり、胸の締め付けられるものとなった。また、その後の凛と桜の姉妹としての繋がりを取り戻すシーンやエピローグでの取り戻した姉妹の日常も一層心揺らすものに感じ、エピローグから上映終了後15分くらいは感情の箍が外れたみたいに涙がとめどなく溢れ続ける始末だった。もうひたすらに嗚咽を堪えようと歯を食いしばって震えながら映画館のトイレで泣いてました…。
また今作品では、大聖杯を巡る過去に遡る場面では間桐がマキリである頃のまるで吸血鬼のような姿をしていたり、また桜がハサンを倒した際に「ただ一人の本物にはなれない」や「仮面の下にも顔がないのね」と含みのある発言をしていたり、言峰綺礼の亡くなった妻についての過去語られたりと自分の知らないFateの物語の存在を感じさせる描写もいくつかあり、シリーズ他作品への興味を誘う作品でもあった。
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