「物語の読解、演出の解体、世界観の抽象化」
「であいもん」─あなたがいるから、私は涙を流せる─ 感想と考察
自分の居場所に気づく物語
自分の居場所に「気付く」ことと「見つける」ことは似ているようで異なることだと思う。一果は幼い頃に父親に半ば捨てられた形で緑松に預けられた。緑松ではみんな暖かく迎え入れてくれたし、みんな娘や孫のように接してくれる。だけど、本当は緑松は縁もゆかりもない場所で、一果にとってはやっぱり心のどこかで自分の居場所じゃないという気持ちを消し去ることができずにいた。
だから、いつも不甲斐ない和に一果がチクリと小言を突き刺す様子に対して、自分は緑松に居させてもらってる身だからと自分にも他人にもつい気張ってしまうような心の表れを感じる。
そんな風に和に向かってツンツンしてたり、緑松のみんなの前でも良い子でいようとしている姿を見ていると、一果の心の底の孤独な感情がなんでも一人でなんとかしなきゃと精一杯大人びた風に振舞わせているように映った。特に第3話、バスを降り過ごした先の大原で一人ぼっちで不安だけど、誰にも頼れず彷徨う一果の姿にそんな印象を感じた。そして、そんな不器用な本心が見え隠れしているから、和に対する一果のツンデレ仕草をこんなにも愛おしく感じてしまうのかもしれない。
その一方で、そんな姿こそが一層寂しく映るのだ。母親は海外にいて、父親には置いていかれて…。一番お母さんやお父さんからの愛情が欲しい年頃に、その両方を見失ってしまった。本当なら恋しくて寂しくて仕方なくて、涙を零したって良いのにそうできなくて、その思いを知らず知らずのうちに隠してしまう様子が切なかった。
変わらない居場所
本当のお母さんが現れた第6話。今の家族の緑松と本当の家族のお母さんのどちらか選ばなくちゃいけないと、一果はそのどちらにも急にぎこちなくなってしまったように映った。だけど、お母さんはもちろん、和や緑松のみんなも一果にとっては暖かくて落ち着ける居場所なことに変わりはない。だから、お母さんの娘であることと緑松の家族の一員であること、どっちかなんてことはないと一果が気付けた時には、思わず涙を零してしまうくらいに切なさを癒しす暖かさに感じ入ってしまった。
本当に寂しい時ほど、人は恋しい人のことを忘れたくなってしまうのだと思う。だから、慰めてくれる人がいて初めて人は泣くことができるのかもしれない。一果が何度そっぽを向いても、和は両手を広げて待っていてくれる。和ならいつでも一果の全てを受け入れてくれて、いつか置いていってしまうなんて心配しなくていい。だから、一果もお父さんとの別れを思い出して、素直に「いつか会いたい…」と恋しく思えるのかもしれない。和がいるから一果は背伸びなんてせずに本心のままに年相応に寂しさや弱さを曝け出せるのかもしれないと、ずっとツンツンした態度は変わらずも心の底ではだんだんと和に心を許していく一果を見ていて感じた。
EDテーマの歌詞、「約束を交わしたこの手を離さないで、忘れないで。ずっと私はあなたを待ってる。」これもお父さんを探す一果や和のことだけは離したくない一果だったり、あるいは一果と再会できた母親だったり、和の元カノの佳乃子だったりと、エピソードごとにそれぞれ違った情景が浮かんできて、そしてそのどれもが感傷的にさせるもので、思わず涙の気配で鼻の奥がツンとしてしまう。
群像劇的に描かれる人たちの淡い想いの繋がり合いには切なさと暖かさがあって、穏やかで何気ない京の日常が色鮮やかに見えていた。
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